ハーレムのバス釣り

 

ハーレムでブラックバスが釣れる、という話は耳にしたことがあった。セントラルパークにある池の話じゃあない。あそこでバスが釣れるのは有名。そうじゃなくて大雨が降ったあと、街路のあちこちにできる水たまりとか、水分を含んだゴミの吹き溜まりなんかにバスが付いていて、それを釣るのだ。

したがってその釣りは、おのずとトップウォーターになる。バスポッパーというフライがいちばん定評あって、でも多くの人はフライタックルなんて持ってないからフロッグか小さめの(ルアーのほうの)ポッパーでやる。どれもピンクが定番色だ。2番手はチャートイエロー。

でもどんなルアーだろうが、街路が干上がっていたらお話にならない。とにかく水気が重要だ。夜半から続いた土砂降りがあがった正午すぎ、110丁目とレノックスの交差点あたりに釣り竿を持った男たちが見えたので、近づいていったらやはり釣り人だった。よっぽど好条件な日ということなのだろう、こんなにおおぜいの釣り人を街路で見る日は年に何日もない。

居ても立っても居られなくなって、大急ぎで家に帰って楽器を置き、代わりにベイトタックルだけ手に取って交差点に戻った。ワンダー、というフライドチキンもピザもぜんぜんウマくないんだけど場所だけはいいので繁盛している店の前の車道にできた大きな水たまりは、そこだけで釣り人が7、8人付いていて割り込む隙はなさそうだったので、そこから酒屋のほうに10メートルほど離れた、地下鉄の入口のそばにある、枯れ草と木の枝がこんもり吹き寄せられたカバーを攻めることにした。

とはいってもメインの水たまりを狙っている釣り人のひとりが割と近くに立っているので、釣りになるのかわからないし、その人のそばに投げたら1発で怒られそうだ。水たまりを攻めてる人のひとりがピンクのポッパーを使ってるのが見えて、しかしゴミ溜まりでポッパーが泳ぐはずもないので、結論として僕はショッキングピンクのフロッグをケースから出してスナップに付けた。

付けながら、投げたルアーが地下鉄の階段を囲っている緑色の鉄柵に引っかかるのはかんべんだな、と思って、鉄柵に向かわずにキャストできる位置までゆっくり回り込み、歩道ぎわの小さな水たまりを攻めてる人の隣に陣取った。少しだけ距離があるけれど、ここからなら自分の腕でもなんとか吹き溜まりを通すコースにキャストできる気がした。

当たり前のことだけど、狙いたいポイントがあったとして、子供みたくまさしくその地点にルアーを投げ込んだりしたら、魚はびっくりして食いやしない。自分とポイントとを結んだ線の延長線上にキャストして、そののち、もっとも食ってきそうな場所を通過させてやるのが大人ってもんである。

僕は深呼吸ひとつして、その自分だけに見えている「延長線上」にルアーを放った。低めの弾道ではなくわざと放物線状にフワリと投げたのは、着地時の転がりを少なくしたかったからだ。その意図が割と反映されたファーストキャストだったのだけど、それでもルアーは想定より1メートルほど右に転がってしまい、結果として先ほどのアングラーの近距離に落ちてしまった。案の定アングラーはこちらを向いて、自分から遠ざけて投げろ、という意味だろう、手を腰から遠ざけるようなジェスチャーをアピールしてきた。順当に言って僕が悪い。すいません。

すまない気持ちを抱いている間にルアーは静止しラインもしっとり地面に落ち切っていた。少し竿を立ててラインを浮かせ、ポイントに直接かからないようさばきながら、ゆっくりリトリーブを始めた。自分がいてゴミの吹き溜まりがあってその右手向こうにルアーがいるから、ラインを左にたわんだ円弧を描くようにさばけば、引っ張っているうちにルアーが狙った地点を通過するというもくろみだ。そしてそれはうまくいった。

大雨と風とで吹き寄せられた植物性のゴミの山は、よく見るとイネ科の植物の枯れた茎がメインで、あと小枝と落葉とが20センチくらいの高さに積み重なっていた。その山頂からだんだんとゴミが薄くなっていく裾野のあたり、目標のポイントまではまだ少し距離があるエリアを通しているところで、1投目からアタリがあった。

予想に反して、モゾッやコツンではなくブリブリっとした生々しい振動が手元に伝わって1秒、大きくロッドを振りかぶってフッキングさせると、ゴミの中から25センチほどのブラックバスが唐突に出現した。一気に抜き上げ、バスが足元に転がる。決して大きなサイズではないけれど、街中の、歩道に積もってるゴミの山からこのくらいの魚が飛び出てくると、やっぱり新鮮な驚きがある。

近くで見物していた買い物カートの老婦人が、アラすごい、といって拍手をくれた。路面で体表が傷まないよう、親指を迅速にバスの口に突っ込み、持ち上げる。手に重みを感じると、ようやく現実に起きたことのように感じる。僕がくる前から歩道の段差の水たまりを攻めていた口ヒゲのおっさんが、Congrats、と声をかけてくれた。表情にはいくらか苦みが混ざっていたけれど。

ところでゴミの中から引っこ抜いた泥まみれの魚をどうするのかというと、食べるわけにもいかないし、そこらに放って干上がらせるのもバツが悪いしってんで、釣り人はそそくさと小走りでアベニューを50メートルほど南下して、セントラルパークの池の北端に放り込んで逃がすのがお決まりになっている。もともとその池からどうやってか渡ってきたんだろうし。そんなわけで僕は、信号が変わるのを待って、ルアーの入ったポーチをがしゃがしゃ言わせながら横断歩道を渡っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ぜんぶ嘘です。フィクションです。念のため…。

今日はミラクルがあったのでその報告。高校生のとき何度か行った人んちそのままの蕎麦屋、という日記を4月に書いたのだけれど、その店名が判明したのです。 

正直言うと、この店の存在自体が自分の脳内で捏造されたフィクションだったら俺もよっぽどだな、でもありえなくもないな、くらいに思っていたので、実在したことにまず何よりほっとしました。店の名前は「ふる里」でした。聞いた瞬間にシナプスつながる音したもんね。ああ、まだ終わってなかった俺の脳。

そんで誰に教えてもらったかって話だけど、何のことはないと言うか、旧友・神吉弘邦くんでした。いまや名編集者になっちゃったカンちゃんだけど、就職活動が一緒の年で知り合ったのだった。俺だって就職活動くらいしたことあるんだよ、1社も受からなかったけど。10社落ちる前にメンタルが完全に終わったので降りた。

無能の自分と違い、かんちゃんはめっちゃ大手の版元に勤めて、そのあと長くAXISで着実な仕事を重ねて、いまフリーなのかな。最近東京のウェッサイに引っ越したらしくて、それで国分寺にある老舗バーに行ったとき、俺の日記のことを思い出して、マスターに聞いてみてくれたんだって。そしたらその人がたまたま麺類好きで覚えていた、と。

けっきょくインターネッツより友達、って話にいっけん見えちゃいそうだけど、でも遠く離れた10年近く会ってない旧友が、日々のたわごとを読んでくれてたっていうのもインターネッツなのかなーってしみじみ思ってる。ちなみに検索してみたら1件だけヒットして、98年7月に「ぶらり途中下車の旅」で紹介されていた。旅人はミスターちんっていうのがすごく良い。

さておき自分が大学を卒業したのが98年の3月だから、大学生になって再訪したらただの民家に戻っていた、って記憶は捏造で、たぶん大学を卒業したあと、あてどなくバイクで徘徊してるときに再訪したのだと思う。大学を卒業して、就職もできず、ライター仕事もらったりスタートっていう編プロで働かせてもらいながら実家にとどまっていた期間が1年半くらいあった。いちばんウジウジしていたけど、なんか元気だったな。

 

人を怒らせてしまった。不本意ながら。うまく書ける気がしないけど記録しておこうと思う。木曜のアーリンのセッションに初めて見かけるギターの人がいて、話し掛けた結果として、わりと険悪な感じになってしまった。というか、僕が険悪にしてしまった。だからこれは反省材料として書いている。

そのギターの人は年の頃、僕よりちょっと若そうなくらい、つまり中年に足を踏み入れていて、中韓日台のどれかにルーツがあるのだろうってルックス、たぶん両親とも東アジア系なのだろうなって感じの顔つきだった。中年でアジア系、ということで勝手に親近感を抱いて、友人のゲイブとしゃべっていたので安心感もあって、何の考えもなく話しかけた。

最初に僕が何て言ったかというと、ちょっと正確ではないけど「はじめまして。ここでアジア系に会えてハッピーだ、どこ出身?」みたいなことを言った。そしたらアジア系のアクセントがまったくない英語で「はじめまして。カリフォルニアの出身です」と返ってきた。その時点で彼の顔はすでに曇り始めてはいたのだけれど、気づいただけでうまく軌道修正できないまま、よくある感じで自分の名前を名乗った。

そしたら彼が名乗った名前がなんというか、明確に日本人風の名前だったんだよね。それで「あれー日本人だよね? 僕は東京出身で」と言ったら「No」。「さっきも言ったけど僕はカリフォルニア生まれでアメリカ人です」と言われてしまった。割とピシャッと。

だもんで、ああ……いまこれ書いててほんと「よせばいいのに」以外の感想が浮かばないんだけど「そうだけど、君の名前は日本人の名前に聞こえるよ。両親が日本人でアメリカ生まれってこと?」と言ってしまった。そしたら「なんでそんなこと聞くの? さっきも言ったけど僕はカリフォルニアで生まれてアメリカ人として育って、4年前ニューヨークに引っ越してきて、それだけ。僕に何を言わせたいの?」と、もう明確に不機嫌な感じで返ってきた。

あー逆鱗に触れるとはこのことだな。と思いながら、「あーごめん、僕も妻も日本人なんだけどアメリカ国籍の息子がいて、彼を今後この国でどう育てていくかいつも考えてるから、アメリカ育ちのアジアンがどんなバックグラウンドを持っているのか興味があったんだよね、それで何度も聞いてしまったんだけど、失礼なことを言ったので謝る。ごめん」と言い訳めいたことを言って、シェイクハンドだけして、とにかくその場から離れた。

人種や国籍や出身の話は、言うまでもなくセンシティブだ。パブリックな場所で言及するのはエチケットに反するし、ルックスや名前からバックグラウンドを予断することはレイシストの誹りを受けても仕方がない。それはよく知ってる。ただ見るからに日本人の人が登場して日本人の名前が付いていると、そのタブーをすっ飛ばして同胞意識というか、日本人じゃーん、アメリカ育ちなの? どんなふうに過ごしてきたの教えてよ〜、みたいな会話をしたい欲望に乗っ取られてしまった。

帰り道、彼のアジアンアクセントが皆無な英語を思い浮かべながら、人種どうこうって話以上に、彼のこれまでの人生と積み重ねてきたであろう努力に対して無神経なことを言ってしまったな、という気持ちに包まれて地下鉄を待っていた。それに彼の感じたイラつきは、まさにうちの息子が将来抱くかもしれないイラつきなのだ。そう思うと自分のやらかしにまた落ち込んできて、身体がプラットホームの床に沈み込んでいくのだった。

情報は人を殺す

旧い話をします。父方の祖父、海軍の下級士官だった元一(モトイチ)は、昭和21年のはじめに腹部の銃創をこじらせて長野県の病院で死にました。よくは知りませんが腹膜炎か敗血症といったところでしょう。祖父は横須賀と伊豆諸島を往復する小型輸送船の艦長を務めており、終戦のときは中尉か大尉かだったと思います。

いずれにせよ大物ではありません。それが昭和20年7月の横須賀空襲で、停泊中の自艦デッキ上にてP51による機銃掃射を腹部に受け、重症を負いました。あと1ヶ月で終戦だったのに、逃げきれなかったあたり、お気の毒。そのまま横須賀の海軍病院に入院となりました。

それなりの重症ではあったものの、命に関わるほどの傷ではなかったと聞かされています。そして終戦玉音放送。晴れてお役御免のはずが、話はおかしなことになります。海軍病院の入院病棟を、流言飛語が埋め尽くしたのです。

武装解除された軍港・横須賀には鬼畜のごとき米兵が押し寄せ、狼藉の限りを尽くすだろう。上陸した彼らは軍人軍属を虐殺し、女子供は陵辱の末に殺され、動けない入院患者などひとたまりもない。

祖父はその噂を真に受けて、このままでは殺される、なんとか生き延びねば、と思ったのでしょう、生まれ育った長野県伊那郡の病院に転院しました。手術の傷も癒えないうちの長距離移動、転院先の地方病院の遅れた設備、戦後の医薬品不足などが重なって、腹部の傷は感染症となり、祖父を死に至らしめました。

情報は人を殺す。父からこの話を聞かされた、幼い私が思い浮かべたことです。情報で人は死ぬのだな、と。付け加えれば流言飛語を信じだリテラシーのなさも人を殺すわけですが、昭和の私はリテラシーという言葉を知りませんでした。私が息子に何か有用な話をしてあげられる気はしないのですが、情報は人を殺す、このフレーズは家訓として手渡すことができるかな、とは思っています。どっとはらい

更科みたいな白い蕎麦で最初に美味さを教えてもらったのは阿佐ヶ谷の慈久庵で、それがたぶん平成元年のことだった。バイト代持って、1人で行った。こまっしゃくれた、嫌な高校生だったわけです。たしか2000年前後に茨城かどこかに移転してしまったのを思い出して検索してみたら、きちんとお店を続けてらっしゃるようで安心した。

なんで白い蕎麦って限定づけたかといえば、それに先駆けること数ヶ月、黒い蕎麦つまり田舎そばで鮮烈な体験があったからで、その店のことを不意に思い出したので、書き留めておこうと思う。その店は国分寺消防署からさらに北に少し入った、住所でいったら本多5丁目になるんだろうけど何の変哲もない住宅街のなかにあって、なにより特徴的なのはただの一軒家だったことだ。

札のような看板が立てかけてあった気がするんだけど、それ以外ほんとに、人んち。人んちの門を入って庭を歩いて縁側から上がり、実家めいた一般家庭の居間か食堂に通されて、それでも居間と食堂とで8席くらいはあったのだろうか、お座布団の敷かれた椅子に座って、蕎麦が出てくる。昼だけの営業で、メニューは確か1種類しかなかった。

いや天ぷらがあったのかな、もう記憶が怪しいけど、とにかく手打ちの十割蕎麦が出てきたのだった。いまとなっては珍しくもないだろうけど、1989年か90年かの当時、街場の蕎麦屋ではまだ、いまでは富士そばでしかお目にかかれなくなったグレーの星入り蕎麦がふつうに供されていて、立川の貧乏人の家で育った私はろくすっぽ蕎麦のかおりなんて知らなかったので、すすった蕎麦から蕎麦のかおりがしたということ、それだけでえらい感動したのを覚えている。

付け加えると、蕎麦のかおりというのが幼い頃に練ってもらったそばがきの匂いだと気づいて、なんだ、おれは知ってたんじゃん蕎麦のかおりを、と拍子抜けもしたのだった。それと蕎麦湯というものを初めて見たのもその店であった。どうやって飲んだらいいのかわからなくて、アタフタしていたのだが、隣の客がするのを真似して、事なきを得た。Googleのない時代の高校生なんて、そんなものです。

その不思議な店には昼休みに高校を抜け出して3度ほど行ったのだが、大学生になったある日に行ってみると、完全にただの民家に戻っていて痕跡すらなかった。あの店が自分のなかの蕎麦を評価する軸に、いまだになっているのは間違いがない。心情的にはその店や店主にまつわる情報が得られたらうれしいのだけれど、ネットを探してもそんな記述どこにもないし、そもそもあの店に店名があったのかも怪しいので検索もはかどらない。

いまどきの脳みそというのは単純なもので、ネット上に記述がないと、ほんとにそんな不思議な店あったのだろうか、自分が記憶のなかで捏造したフィクションなのではないだろうか、と急に不安になってくる。いつか蕎麦好きの誰かがこの記事にたどり着いて、私も行きましたよその店、と言ってくれる微かな希望をこめて、今日の日記をネットの海に放流します。

 

 

1ヶ月早いねー。最近の自分を振り替えると、まずはネガティビティだと、アトピーの悪化が最大のトピックとしてある。理由は簡単で、去年顕著な効果を示したデュピクセントが、1月に保険会社を切り替えたとき、自分の下調べの至らなさから同じ処方箋で処方され続けることができなくなって、またいちからやり直しってことになり、この3ヶ月、使えなくなってぶり返していたのだった。

別にデュピクセント前に戻っただけでしょ、といえばその通りなのだけれど、人間というのは脆いもので、いったん病状が大幅に良くなってしまうと、そこから悪化するのはほんとにメンタル的にしんどいのだった。デュピクセント前の症状レベルを100、後を20くらいと考えるなら、いま8〜90くらいまで戻ってしまった感じなんだけど、精神的には200くらいしんどい。よくこんな地獄で何十年も生きてたなー俺。

いままた処方のプロセス中なので、この地獄もそう長くは続くまいとは思って、家族もいるしさ、地下鉄に飛び込んだりするのは踏みとどまっている。おれがいちばんアトピー悪かったのは23のときなんだけど、あのとき、ほんとに気を許すとすぐに飛び込んでしまいそうになるので、とにかくプラットホームの真ん中しか歩かないようにしていたのを、病院があった御茶ノ水の駅の風景とともにいまでもはっきり思い出せる。

ちなみになぜ保険の切り替えでトラブったかというと、自分の主治医が保険の対象内にいるかどうか、保険会社のサイトでちゃんと検索して表示されたので安心していたのだけれど、自分の無知というか大きなトラップというか、こちらの医師は複数のアドレスを持っていて、自分の主治医の場合、入院病棟のアドレスは保険適用内なのだが、外来病棟のアドレスは適用外だったのだ。なんだそれ。

そんなわけで人間としてのアクティビティは大幅に低下していて、ジョギングもせっかく温かくなってきたのにやめてしまった。まずい。一方のポジティビティだけど、何をいまさらと言われそうだけど、最近、楽器の練習が楽しくなってきて。ようやくすぎんだろ、って感じなんだけど、ようやく弾いてて楽しい、楽しいから弾く、弾いてるから弾けるようになってくる、というサイクルが回り始めたのかもしれない。

あと諸事情で通い始めたシティカレッジのジャズスタディなんだけど、すごい良いです。40人くらいしかいない小さな学科なので、こうファミリー感があるというか、目が行き届いている感じがあるし、なんとかこの子らをジャズクラブに出れる程度には仕上げて送り出さないと、というファカルティの熱意も感じる。公立だから学費も私立音大の1/3だし、留学先としてはけっこういいのでは。

バークリーみたいにプロ顔負けの同級生がいたり、バラエティに富んだ科目があったりいろんな豪華ゲストがやってくるきらびやかさはないんだけど、自分にはすごく合ってる感じがするし、楽しいです。あとシェパードホールというお城みたいな校舎が、古くて不便もいろいろあるんだけど、めちゃくちゃ雰囲気よくて元気になります。

ただ学校も行って仕事もして、ってなるとほんと忙しいね。ほんとは寝込んでる暇ないんだけど、アトピーの悪化とともに発熱の回数も増えてきて、空いてる時間はだいたいベッドに伏せってます。家族のサポートがあってなんとかやれてるのがほんとうのところ。そんなところで。

Basquiat's Bottleで連絡先を聞かれたシンガーのシャイナたんから「ベース探してんだけど」ってテクストが来たので、断る理由もなく引き受けたのだった。そんで月曜にリハがあって、水曜に本番だったのだけれど、それなりに楽しくできて、チップもそこそこ乗ったし、ハコからは来月も同じメンバーでやるオファーも入り、ひとまずはホッとしている。

メンバーみんな、決して卓抜したプレイヤーではなかったけれど、お互い励ましあっていい出力ができたし、なにより現場がいいムードで、結果演奏がよくなっていって、やってて楽しかった。以前トゲトゲした現場で萎縮しまくったことがあって、そうなるとこちらも普段に輪をかけてろくなプレイができなくなり、ヘボいとさらに当たりがトゲトゲを増すわけで、ほんとあれしんどかったな。

以前Fラン大学の話をしたときに少し書いたかもしれないけど、Fラン大学では学校側が生徒の能力を一切信用していなくて、大学生なのにカリキュラムを自分で決めさせてもらえず、パソコンすら自由に触れない。そうやってバカ扱いされることが日常化していると、人は実際バカのように振る舞い始めるし、そうなったらそのバカ環境から抜け出すことは普通の環境下でレベルアップを図るより何倍も何十倍もたいへんになる。

この歳になって確信しているのだけれど、もし現状能力の低い人に少しでも良いパフォーマンスを発揮してもらおうと思ったら、鞭打ったり踏みつけたりしても高い確率で望みは叶わない。叩き落として這い上がってきたやつだけ残せばいいんだ、って指導者がどんな世界にも一定数いるけど、なにより不効率不経済だし、這い上がれなかった人たちで死屍累々になるし、いいことひとつもないよマジで。社会悪。

なので、大人として人間としてすべきなのは、一種の投企とでも言えばいいのかな、少々あぶなっかしくても他人を信頼してその可能性に賭けてあげることだとつくづく思った。今回がそうだけど「あなたのプレイが好きだし頼りにしてるわ」って言われ続けてると、実際おれみたいヘボでも演奏がよくなったりするのだから、褒めて伸ばすとか立場が人を作る、みたいのはある面で真実なんだろうし、アメリカの病理として論われることの多いナイスガイ抑圧も、経済的合理性があるのだなーと思う。

でも実際、自分がFラン大学の先生になったりターミナル駅前にある不動産屋の社員になったり光通信系の携帯ショップに勤めたりしたら、ゾッス激詰めをやらずにニコニコしていられる自信があるかというと、どうだろう。いま地獄のただなかにいる人から、お前が恵まれた環境でぬくぬくやってきただけだろ、と指弾されたら、やはり心許ない気分にもなってくる。

今週まだ2度、5kmずつしか走ってない。やばい。がんばる。