更科みたいな白い蕎麦で最初に美味さを教えてもらったのは阿佐ヶ谷の慈久庵で、それがたぶん平成元年のことだった。バイト代持って、1人で行った。こまっしゃくれた、嫌な高校生だったわけです。たしか2000年前後に茨城かどこかに移転してしまったのを思い出して検索してみたら、きちんとお店を続けてらっしゃるようで安心した(お酒の価格帯が安くなっている気がして、デフレっていやね)。

なんで白い蕎麦って限定づけたかといえば、それに先駆けて黒い蕎麦つまり田舎そばで鮮烈な体験があったからで、その店のことを不意に思い出したので、書き留めておこうと思う。その店は国分寺消防署からさらに北に少し入った、住所でいったら本多5丁目になるんだろうけど何の変哲もない住宅街のなかにあって、なにより特徴的なのはただの一軒家だったことだ。

札のような看板が立てかけてあった気がするんだけど、それ以外ほんとに、人んち。人んちの門を入って庭を歩いて縁側から上がり、実家めいた一般家庭の居間か食堂に通されて、それでも居間と食堂とで8席くらいはあったのだろうか、お座布団の敷かれた椅子に座って、蕎麦が出てくる。昼だけの営業で、メニューは確か1種類しかなかった。

いや天ぷらがあったのかな、もう記憶が怪しいけど、とにかく手打ちの十割蕎麦が出てきたのだった。いまとなっては珍しくもないだろうけど、1989年か90年かの当時、街場の蕎麦屋ではまだ、いまでは富士そばでしかお目にかかれなくなったグレーの星入り蕎麦がふつうに供されていて、立川の貧乏人の家で育った私はろくすっぽ蕎麦のかおりなんて知らなかったので、すすった蕎麦から蕎麦のかおりがしたということ、それだけでえらい感動したのを覚えている。

付け加えると、蕎麦のかおりというのが幼い頃に練ってもらったそばがきの匂いだと気づいて、なんだ、おれは知ってたんじゃん蕎麦のかおりを、と拍子抜けもしたのだった。それと蕎麦湯というものを初めて見たのもその店であった。どうやって飲んだらいいのかわからなくて、アタフタしていたのだが、隣の客がするのを真似して、事なきを得た。Googleのない時代の高校生なんて、そんなものです。

その不思議な店には昼休みに高校を抜け出して3度ほど行ったのだが、大学生になったある日に行ってみると、完全にただの民家に戻っていて痕跡すらなかった。あの店が自分のなかの蕎麦を評価する軸に、いまだになっているのは間違いがない。心情的にはその店や店主にまつわる情報が得られたらうれしいのだけれど、ネットを探してもそんな記述どこにもないし、そもそもあの店に店名があったのかも怪しいので検索もはかどらない。

いまどきの脳みそというのは単純なもので、ネット上に記述がないと、ほんとにそんな不思議な店あったのだろうか、自分が記憶のなかで捏造したフィクションなのではないだろうか、と急に不安になってくる。いつか蕎麦好きの誰かがこの記事にたどり着いて、私も行きましたよその店、と言ってくれる微かな希望をこめて、今日の日記をネットの海に放流します。