あけましておめで…喪中でしたw。ボストンは基本的に大学でもってる町なので、学生、研究者たちはほとんどが実家へ帰ってしまい、ダウンタウンのほうは賑わってるのか知らんけど、うちの近所はもうゴーストタウンのような有り様です。ニューベリーポートというメイン州にほど近い町の日本料理店がやっているおせちセットを注文したのですが、妙にプロっぽさの欠けた家庭寄りの素朴なおせちが届き、これはいいこれはいいとすぐに食べ切ってしまいました。

おせちといえば、11月に死んだ母の認知症を私自身が初めて認識したのは、ある年のおせち、正確にはお雑煮でした。私も兄も実家を出て、年々おせちは縮小傾向にあったのですが、品数は減っても味は変わらなかったんですね。それが、たぶん2013年ですけど、お雑煮の味が変わってしまって、変わったというか正確には味がしなかったんですけどw、これはただならないことが起こってるぞ、と戦慄したのを覚えています。でも平和そのものでしたね、表面的にはまだ。そのあと起きた怒涛のような出来事を振り返るに。平和のなかに崩壊のたわみが溜まっていたのだなあ。

お子のおむつを替えていると、去年(もうおととしか)83で死んだ父のことを思い出します。父は最期の3日間は紙おむつを余儀なくされました。「参っちまうよ、もう」それが私の聞いた父の最期の肉声で、たぶん一生消えない声だと思います。最期の数日、私は父に付き添いきれなかった。そのことを一生悔いながら生きていくのだと思います。理知的に考えれば誤った判断ではなかったのですが、でもまあ人は理知のみに生きるにあらず。

湿っぽいついでに、お子を寝付けようとあやしていると、ふと母が私に唄った子守唄を口ずさんでいることに愕然とし、泣き崩れてしまったことがありました。母はなんというかエピソードにことかかない程度には強烈にわがままな人で、正直あそこまでわがまま放題だった人を私はまだ見たことがないw。そのせいで物心付いて以来私とは折り合いが悪く、実家を出ることで和解こそしたものの、それでも一緒にいられるのは1時間が限度でした。その母が、こんな気持ちで私を抱いていたのかと思うと、申し訳ないというより恐ろしさに近い気持ちで心臓が締め付けられます。私にはあの人の血が流れているのだなあ。ほんとうにほんとうに気を付けなければならない。

母のことで申し訳なく思うのは、嫌がる母を無理くり精神外来に連れていき、認知症の投薬治療を受けさせたことです。発症している人がいれば治療を受けさせないとと考えるのが当然で仕方ないのですが、いま思い返せば、限りなく裏目に出ました。初期の認知症で進行を食い止めると考えられている薬はアセチルコリンエステラーゼ阻害薬しかありません。そのなかでもっともメジャーなのがアリセプトですが、これが(いま思えば)トラブルの元凶でした。家族はよかれと思って飲ませるわけだけど、なんつうの、基本的にアッパー系の薬で、それが母の場合は怒りっぽさとして表出したのでした。

処方した医者も他にチョイスがないので責められません。何もしなければ何もしないで責められるんだろうし。結局最期の1年を過ごした老人ホームの看護師さんが知見と勇気のある人で、飲まない選択肢を取ってくれました。曰く「効く人もいるけど、2割もいない。効いたところで進行を抑えるだけで治るわけでもない。その割には副作用が強くて、トラブルの種になる。やめちゃっていいですよ」。そうしたら、猛りくるっていた母が別人のように落ち着いてしまい、なんだか可哀想なほどで、とにかく晩年を穏やかに過ごすことができたのは、どれだけか救いだったのかもしれません。

でも、たとえアリセプトを処方されなかったとして、心臓で倒れた父と、認知が日々進行していく母の老夫婦を、どう介護できたのか。老人ホーム入り以外にどんなオプションを取ったらどうなっていたのだろうか、考えても考えても答えのないことですが、でもこれも考え続けていくのかなーと、ある種の後悔をしつづけていくんだろうなーと思っています。別に後悔も悪いもんでもないです。たいていの思い出なんて後悔と張り付いていて、だから人はそれを思い出したり抱えていけるんじゃないでしょうか。なーんちて。学校がないと死人の話ばっかり!w