(やっと世間に追いついたぞ)オノヨーコのパフォーマンスが酷いとか酷くないとか、話題になっているらしい。見たらあまりにいつものオノヨーコで、いまどきの言葉でいえば通常営業というやつだった。これ40年前からやってるだろう。さすがに遅すぎるのではないだろうか。人々はオノヨーコの何を見てきたのだろうか。

たとえばあるアートやパフォーマンスを目にしたとき、前衛であればあるほど、それが傑作である、もしくは駄作であると自信を持って断じられる人は少なくなる。たいていの場合、人々は自分の直感を、識者の評判や、世間でのセールスや、さまざまなコンテキストで補強して判断を下すものだ。でもそのとき自分の直感とコンテキストとが、補強どころか正反対を向いていたら?

オノヨーコは60年代から常に、オーディエンスをモニョらせる、すなわち判断保留と不安と膠着に陥れるのを仕事にしてきた人だと思う。ステージやパフォーマンスを見た人の笑顔はこわばり、心ではどうみてもこれ、ないでしょ、スカムだろう、ひでえなと感じている。でも一方で、これは素晴らしいものに違いない、という強靭なコンテクストを必ずオノヨーコは背負って登場するのだ。

財界の超お嬢様だから、一柳慧のパートナーだから、フルクサスのメンバーだから、ジョンレノンの女だから、小山田が参加してるから、これは素晴らしいもののはずだ、上等なものなはずだ。そうやってオーディエンスの心をかき乱し、引き裂かせるところに、オノヨーコのアジテイターとしての美徳はある。

裸の王様に王様は裸だ!と叫ぶのは子供の所行だ。自分には裸に見えてるけど、まさか王様が裸なわけがない。だってみんな普通に誉め称えてるし。尊敬に足る後ろ盾もいるし。ひょっとしておれの目がおかしくなったのだろうか。それとももう裸がありになったのだろうか。こんなこと思ってるのは自分だけなのだろうか。でもやっぱり裸に見える。ひょっとして通にだけ見える服があるのだろうか(無限ループ→膠着)。こんな苦々しい心の動きを駆り立てる才能において、オノヨーコは常に第1級だし、僕はそのことを素晴らしいと思っている。

45年前のライブをどうぞ。黒いレスポールはクラプトン。