もし僕に自分で専門、と呼べる分野があるとすれば、仕事でいうならネットメディアとわが国のマンガ業界ないしはエディトリアルとライティング、趣味でいうならベースギターと自分が生まれた頃の黒人音楽ということになると思う。ひとつでも専門的な知見を持つことができたのは幸運なことだけど、今日はそういう話じゃなくて、逆の話。つまり

自分が専門としている分野について、たまにtwitterやブログとかで専門外の方から意見が飛んでくることがある。そのとき、気の毒ながらその意見のおよそ9割はトンチキだ。トンチキというのは明白に的外れだったり基本的な知見を踏み違えているということだけど、それで僕が何を思うかと言えば、このトンチキめとは思わないし、馬鹿にしたり腹が立ったりもしない。ただ

ああ自分が自分の専門以外のことに口を挟んでいるとき、その9割はトンチキなことを言ってんだろうな、と思って恐ろしくなる。たとえば僕は料理や外食産業や映画やダンスや医療について、専門的な知見を持たない割にベラベラと言及しがちだけれど、その述べてる意見の9割は議論するに値しないどころか基本的なファクトすら踏み外しているはずなのだ。となれば

みっともないからせめて黙っていたいな、と思うのだけれど、一方でたとえば原発や軍事や政策について、専門家のように確かな知見はないけれど、はっきりとこれはおかしいというフィーリングを得ることは、ある。そのフィーリングを市民感情と言ってもいいかもしれない。そして

専門家が専門ゆえにある種の危機に陥ることはパターンとして知られていて、市民感情にはそれを食い止めた実績が、あるにはあると言えなくもないっちゃ言えなくもない。ここにきてだいぶ語調がモヤッとなるのは、それでもやっぱり、たいがいにしてトンチキなのだ、市民感情というものは。困った。ウォーキング続いてます。