昨夜はトビオが来宅。超超ありがたいトモコ便(トビオ母による晩ごはん詰め合わせ)が届き、泣きながら貪り食う。前も書いたけど、俺だって料理作れないわけじゃないけどさ、つうかTFJには負けるけど、かなり、それこそ婚期逃す勢いで自炊するほうだと思うんだけど、なぜ主婦が作ると家庭の味になり、独身男が作るといくら上手にできても家庭でも料理屋でもない宙ぶらりんな独身男の味になるのだろうか。そこに生活に関するマジックが介在する。

しばらく前に、投票経済、という言葉をでっちあげてみたら、けっこうな反響があったので、もう少しじっくり考えてみたい。もともとその言葉を思いついたのはずいぶん古いことになるのだけれど(10年前)、思い出したのはこないだカゴメの野菜生活ソフトのCFで「愛し愛されて生きるのさ」が使われていたときのことで、最初にそれを見たとき俺が思ったのは、ウワあざとい! とか、マーチに引き続き渋谷系ディグかよ! でもなく、「これで売り上げ伸びなかったとして小沢のせいにされちゃかなわんなー」だった。そんで仕方ないから飲みたくもないのに2本ほど買ってきた。こういう消費性向について、古典派経済学者の誰が合理的な説明をできようかね、と思って、それで投票経済、なんて言葉を持ち出してみたのだけれど、どうかしら。

どうかしら、って問いかけで終わるほど酷いものもないので、一応もうちょっと腰を据えてやってみたいのだけれど、俺の学生のときの興味というのは、合理的な消費者行動の外側にある消費こそフツーの消費ってもんなんじゃないの? ということで、ぶっちゃけてしまうと、おおむね経済学では消費にせよ生産にせよ、あらゆる行動の動機は「得するからー」ということになっていて、それは効用とか利潤とか呼ばれてるんだけどそんなことどうでもいいや、とにかく人が経済行動をするのは、結果として成功するかしないかはさておき、得したいから、ということになってるんだわ。

で、そう教わった俺は、おいおいすべての経済行為の動機はほんとに「得したいから」なんですかねえ、と思ったの。たとえば、お歳暮とかお中元なんか、得なのか損なのかすでにわからなくなりまくってるし、結婚式のご祝儀なんかは、もうほんと、苦しい中仕方なく(結婚式やったおまえらよく聞けよ!) でも付き合いで出したりするじゃん。あとお墓とか。石にいくら払ってんだよ! 石くれじゃん! って感じで。でもまあ、払う。何十万とか何百万とか。そういうのどうするの? って聞いたら、えーと、そういうのは例外なんだそうです。どうも。儀礼的消費とか名付けられてるんだけど。へー。この話あとで蒸し返そう。

話戻って、とにかくそういう、あらゆる経済活動はそれによって得をするために行われてまーす、みたいな大前提の最たるものとして挙げられるのがさ、原初経済の誕生ってやつで、これは要するになんだ、その、人がまだウッホーとかゆってた頃にはじまった、人類最初の経済活動って何だろう、ってみんなで考えるんだけど、これの正解例が酷いんだよね。いわく、山あいの村では塩が採れません、そこで山の特産品であるカゴを作って海辺の村に行き、海の幸や塩と交換しました。海辺の人はカゴが手に入って大助かり。山の人は塩が手に入って大ハッピー。みんな得したよねイエーイ、こうして交易が始まりました、っていうの。

うそじゃんそんなの。いやあったかもしんねえけど、俺はそんなのうそだと思う。ぜんぜん実感湧かないもん。もしね、百歩譲って、山の人が海の人にカゴを渡したのが最初の交換経済だったとするなら、俺はその動機は、得したいから、じゃなくて「どうぞよろしくー」だったと思う。別に下心として、海の人と仲良くしとけば塩とか魚がゲットできるかもしれんぞ、ってのは普通にあったと思うけど、でも基本的な動機は、オラ山から来たです、あ、これつまらないものですけどドゾー、って渡したんだと思う。そんで海の人は、あらまこりゃご丁寧に、あ、魚、干したのあるわよそっちじゃ穫れないでしょー、もってきなさいよ、って渡したと思う。これなら俺すげえリアリティあるもん。みんなやってそうじゃん。

で、こういった原初的な交換経済の動機を利得欲求でなくコミュニケーション欲求に求めるというのは、まあ浅田彰に言わせりゃ「もっとも唾棄すべきバタイユの読み違え」なんだそうだけど浅田なんか知るか(笑)、いまもむかしも俺にとってすごいぴったりくる考え方で、考えてみりゃ家計において、利得行為以外の経済活動のほうが圧倒的に多いくらいだと思うんだよね、実際のところは。で、その一類型として、さっきの儀礼的消費もそうだし、物語消費や記号消費と並んで、投票的消費というのがあるんじゃないか、と思った話をしていたんだった。ようやく話が戻った。

たとえばちょっと前に、喩えが酷くて申し訳ないんだけど、ビーズ、カタカナで書くとTheピーズみたいだね、えーB'zのシングルがオリコントップ10を独占したことがあって、なんだっけ、どうでもいいから忘れちゃったけど、過去のシングルをドカンと再発して、それでファンが全部チャートインさせよう、とかって買いまくって(もちろんレコ社が煽ったわけだが)実際そうなった、と。すげえ商売だけど、これが投票的消費の最たるもんじゃないかと思う。つまり、自分が好きなものを社会的に知らしめたいがために買う。木村カエラをブレイクさせたいがために10枚買う。もしくはブレイクしてほしくないがために買わない(俺)。もうちょっと違うことを言えば、ドクターペッパーの売れ行きが悪いと昔みたいに生産中止になっちゃうので仕方なく飲みたくもないのに買う。

あと、さらに話がドリフトしちゃうけどさ、クイックル・ワイパーの類似品っていっぱい出てるじゃない。そんで、別にどれだってそれなりにゴミはとれると思うんだけどさ、でも俺はやっぱりクイックル・ワイパーを買いたいのね。それはなんでかっつうと、やっぱり最初に頭ひねってクイックル考えた人んところに富が流れ込むのが正しいと思うし、あとクイックルっていまでもすげえ研究開発しててマイナーチェンジを繰り返していてがんばっててさ、それを、そこらの田舎企業が後乗りで製紙会社に「ほら、不織布で、クイックルみたいの作れるっしょ」とかテキトーに発注して売り出したのとかにかっさらわれてくのは我慢ならないんだよね。だからクイックル・ワイパーを応援したいし、だから買う。

こういった消費形態を、なんと呼べばいいのかわからないので投票的消費と呼んでみたけど、別にコミットメント的消費でもいいし、アンガジュマン消費、でもいいと思う。とにかく、企業や社会に対するなんらかのインパクトを期待しての消費。そういうのってあると思うし、消費行動そのものに消費者の意図を織り込んで行く、という消費形態は、今後どんどん増えてくんじゃないのかな、と思ったわけ。たとえばさー、いまやどんなボンヤリさんだってチャート曲をMXとかで入手できちゃうと思うんだけど、でも一方で、そのアーティストにチャートインしてほしいからなのか豊かになってほしいからなのか知らないけど、とにかく自分の財布を捧げるかたちで、買うよね。CDを。なんかそういう話につながっていく気がするんだよね。昔シェアウェアのときに一度そういうことを考えたんだけど、なんか、また、そういう気分。