へたってきたトランクスを買いに、藤沢へ。ふと気づくと最近まったく食してなかったので、無性にソバ欲が湧き上がり、トビオに電話して藤沢駅近辺のソバ屋を教えてもらう。店内にはガラス張りのソバ打ちルームに、電動の挽き臼と打ち台。だいたい主人がどこらへんのそば屋に憧れて始めたのかは察しがつく。90年代、玄蕎麦挽きの手打ち蕎麦は、何人かのカリスマ的リーダーの名の下に、ものすごい勢いで国土に拡散していった。製麺所から仕入れてのどかにきつねを出していたような町そば屋が、代替わりしたとたん、小難しい顔をしたヒゲバンダナが、得意げに不揃いなソバを切り、せいろの量が激減して、丼ものメニューを一切やめる、という風景は、どこの地域でも見られたはずだ。

まあそれはいい。にわか本格志向のソバ打ちが増えたおかげで、いわゆる名店に行かなくてもそば粉の匂いのするソバが食えるようになった。アベレージも上がった。町ソバが食いたければ富士ソバがある。だからその店にも、別に嫌悪感は抱かなかった。ふうん、がんばってるんだね、くらいで。でも、旬のイチ押し、として壁に貼られていたメニューは、これはもう俺を取り乱させるに十分な何かを孕んでいたね。まあ頼んだ俺がバカだったかもしれない。せいろと田舎の相盛りくらいにしておけば良かったんだ。その季節限定のメニューってのはね、あのね、鴨南が冷やしでぶっかけになってるの(笑)。なんか俺はここんとこ、食いもんについて書くと、必ずこう言ってるような気がするんだけど、また言わせてもらうよ。ウマければなんでもいいのか!

鴨はあれ、下味タレに漬け込んでからのロースト。それはそれでウマいが、この時点で唐揚げ的フレーバーというか、甘い。で、ぶっかけのツユがまたぶっかけ仕様なので甘い。白髪ネギが添えてあるので、この皿、何に似てるんだろう、と思ったら、なるほど、わかった、

ラーメンだ。

ほんとにすっきりした。あのね、イタリアン食っても、和食も、お好み焼きも、蕎麦食っても、料理が、ぜんぶ、ぜーんぶ、ラーメンだったのだ(笑)。 料理の構造が、あまねくラーメン化している。これが違和感のみなもとだった。ラーメンの構造、それはスペック・オリエンテッドであり(××地鶏と死海の塩となんちゃら豚でモンゴルかんすい)、足し算自慢であり(20数種の素材を一昼夜煮込んだスープ)、溶け合ってひとつの味を醸す(染み込み染み出し)。そしてことごとく旨味=甘味である。伝わるか少し不安だけど別の言い方をすれば、ラーメンとは甲殻類的構造を持った料理であって、他の多くの脊椎動物的構造の料理とはなりたちが異なる。多くの料理がフレームに肉付けされ形をなしているのに対し、ラーメンには骨格がなく、代わりに固い外殻で料理を支えているのである。バイク好きの人には、ラーメンはベスパだ、と言えば通じるだろうか。

この日本でのみ特異的な発展を遂げたフリーキーでビザールな料理、それはそれでいい。年に一度くらい、キムチラーメンが食べたくなる夜もあるさ。問題は、その構造が伝染し、他のフレームを持った料理を乗っ取りつつあることだ。それはまるでブラックバスセイタカアワダチソウのように在来種を一瞬で駆逐してしまう。きょうはっきりと認識したけれど、近い将来、この国には料理が1種類しかなくなってしまうような気がしている。料理におけるグローバリズムは、ラーメンのかたちをとってやってきた。どうかラーメンに塗り込められない食卓を。味覚に品格を。調理に倫理を! パンツ買い忘れた。


トビオのリコメンで蕎麦を食って、コーヒーでも一杯、ってところ(もう飲んで帰宅済み)。