契約書を返送し、敷礼等を振り込んだ。これでもう後には退けないのだが、どうにも10日後には別の場所で暮らし始めている、というイメージが湧かず、へんな気分だ。昼食は、えーと、ディスるから店名は伏せようかな。近所の新参和食屋のランチ。夜はおまかせのみで6000円、だったかな。店は適度な高級感と清潔さが保たれ、オープンキッチンでカウンターのみ。カンパチの塩焼き、鮪のおろし和え、香の物、ご飯、味噌汁、フローズンヨーグルト、のランチで800円は安いが、しかしまったく評価できない料理だった。どうにも全体が素人臭く、また女々しいのだ。たとえば焼き魚を、なんつうのかなあ、粘土細工のブローチみたいにこさえるんだな。クラフト感覚、って言えば通じるだろうか。

見た目ものすごく均一に上手に焼き色が付いていて、しかも皮はクリスピーのぱりぱりで、身はジューシーのしっとりで、ちょっと強めの塩加減も意図はわかるし、素材自体も昨夜の残りだ、というもののちっとも悪くない。要素だけ書き出せば貶すべき点などないのだけれど、しかしダメだ。食べ物を食べている感じがしない。人は心持ちひとつで同じモノでも食べ物と認識したり食べ物外のものと認識したりする。たとえば子供が調理実習で、食材をこねくりまわして遊びはじめるとセンセイは食べ物を粗末にするんじゃありません、と叱るが、それはその食材が途端に、口に入れるべき食物ではなく何らかの単なるマテリアルであるような色を帯び始めてしまうからだ。あとテフロン加工のフライパンで一人分の食材をちまちま炒めていると、なにか理科の実験のような気がしてきて食い気が失せてしまう、とか。

同じ理由で、皿の上で料理を弄ぶ女が嫌われるのだけれど、とにかく食べ物というのは人間にとって「これは食べ物である」というスペシャルなジャンル認証によって裏打ちされてはじめて食物たり得るわけであって、その認証は実際の素材とか味とか衛生とか毒性とかが一定の水準を満たしていようがいまいがあまり関係なく、ただ単純にムードにのみ依存する。そこらへんのマージナルな部分を刺激しておもしろみを付与したのがネルネルネルネとかの類いで、極限すれば、この店の料理はどれもネルネルネルネみたいだった。これは致命的で、なぜなら例えば「活け〆ワラサの切り身」が「死後半日経過したブリの死体片」になってしまう。旨味測定器なんてもんがあればたぶんそれなりの数値を出しただろう料理だったが、これではいただけない。

したがって料理人にとっては腕前とか創意工夫とかより、取り扱っているものが食物である、というムードを管理維持することこそが本質的だし通常最初に仕込まれることなんだけど、この店をひとりで切り盛りしているオーナー兼料理人はそのことをあまり理解していないようだった。脱サラさんかな? 場所の悪さの割にはなかなか客の入りで健闘しているこの店だけれども、ジャリの散歩で店内を覗くたびに軽く感じていた客層の東京ウォーカーっぽさ、いやもっと言ってしまえ、ビーイング感が気にはなっていた。あの層なら内装と、カウンターキッチンのゴージャス感と、整いまくった料理の外面で大満足だろう。あと料理人が国産アメリカンバイクに乗っているのも不安を倍増させた。パチモンハーレーに乗ってるような奴の作る和食なんて、と笑っていたが、然してそうだったのだから俺のドグマティックな先入観も捨てたもんじゃない。

夕方、菊地さんの講義に出てみる。近所なのに一度も行ったことがなかったので、引っ越す前に一度見ておこうと思ったのだ。中教室に、笑うよりちょっと引いてしまうくらいの人、つうか生徒。すごいなあ人気者だなあ。内容はモーダル/コーダルの派生と、もうひとつファンクの誕生の同時進行、という、モードから生まれた3人の子供(あとひとつはモード/フリーで、それは先週やったらしい)の話。内容にあまり新鮮みはなかったけれど、話芸はいつものスチャラカっぷりで笑わせられる。ひとつとてもストンと納得が行ったのが、モーダル・インターチェンジでバークリー(=商業音楽用メソッド)を超えてしまったことによって、ジャズそのものが商業音楽じゃなくなってしまった、という、ジャンルの立ち位置とそのバックボーンであるメソッドのアナロジカルな関係について。でもあのトーク、基礎教養ないとほとんどわからないと思います。まあ基礎教養のある音楽ファンが全員集合してるようだから心配ないだろうけれど、しかし基礎教養のない層に菊地さんのトークが届く、というのもまた東大という場を遊ぶひとつ大事な要素じゃないだろうか、とも思った。