ロスト・イン・トランスレーションはねー、そんな大した話じゃないけど、あれ見て「トーキョーがよく撮れてる」みたなこと言ってる奴らが悲しいだけ。理由は簡単で、君はソフィアじゃないし、君の家にワイナリーはないでしょ、って。自分の骨格鏡で見てみろバーカ、とまでは言わないけどさ、ああいう貴族趣味に転移しちゃうというのはやっぱり脇が甘過ぎるよ。バンタン入って上京したてで新歓コンパで知り合った彼と見に行ったような子なら許すけど(いやこないだバンタン新歓つう団体に遭遇したのよ感動した)、割と意識的な人でもソフィアとなると判断停止、みたいなパタンって少なくないように思ったんだよね。そんなにmilk fed着た娘さんにフラれたのか?

ぜんぜん違う話。これまでに何十かの曲を作ったけど、常に全部自分ボツで完全に破棄してほとんど誰にも聞かせないできた。たとえば文章はなんのフィルタもかけずこうやって書いたり売ったりしてこれたのとずいぶんな違いだ。俺がなぜ自分で作った曲をここまで嫌悪するのか自分でもいまいちわからなかったのだけれど、その理由が突然思いついて合点が行ってしまった。俺が作る曲は、母の描く絵にそっくりなのだ。俺は母親が描く絵が吐き気を催すほど嫌いだった。それはパステルとか油絵の具とかで描かれているのだけれど、ただ小ぎれいに、小ぎれいな絵であることだけを志向した絵で、たいていよくわかんねえ山とか川とかもしくは花とかが、へたくそなくせに完璧に差し障りのないアングルで並べられ、そしてただそれだけだった。あんなに気持ちの悪い絵は、俺はよそで一度も見たことがない。いや、あった。それが自分の曲だったのだ。

うちの実家には、俺と兄とに「我らのライラック」と呼ばれているライラックの鉢がある。理由は後で述べるのだが母はあらゆる植物を長持ちさせるのがとても下手で、しかしそのライラックの大鉢だけは例外的な強靭さでもって10数年の樹齢を数えている。その枝振りは、遠くから見ると、とても良い。絵に描いたように(これが言いたいのだ)整った枝振りをしている。しかし近づいてみると、その枝は執拗に度重なる剪定によって無数の節くれが立ち、グロテスクに波打ちうねり、奇形的なことこの上ない。母は、草木に「絵に描いたよう」でないパートがあると、すぐに摘んでしまうのだ。少しでもしおれた花や枯れかけた葉、ハンサムではない枝別れはすぐにゴミ箱に行くことになり、したがって体力のない草花はすぐにダメになってしまう。そして生き残ったライラックは、狂った枝振りのまま、いつか枯れるのを待っている。

山内明日
いろいろ気になるグラビアの子はいるものの、ここ半年ほどのフェイバリットは生烏龍の山内明日で安定している。がなぜ彼女が良いのかと考えたら、黒田勇樹が好きだったからだと気づいた。のーんでのんで、みてみて、プリーズ。

■相川屋豆腐店
うちの近所には2軒の造り豆腐屋があって、富一商店街の越後屋と富二の相川屋なのだが、より近所で馴染みにしていた相川屋が昨日で閉店してしまった。いつも予約で大半がはけてしまい昼の3時には売り切れる店なので、昨日張り紙に気づいた時にはすでに店は仕舞っており、最後の味を楽しむことができなかった。口惜しい。越後屋が木綿というよりはリネンと言いたいくらい男らしいのに比べ、相川屋はくせがなくしなやかで、蕎麦で言えば更科というか、女性的な舌触りが特徴だった(実際仕込みは越後屋は男、相川は女性がやっていた)。看板建築然とした古い店構えも、ジャリを見るといつも合成着色料保存料いっぱいの犬サラミをくれるので俺を困らせていたおばあちゃんも好ましかったのだが。残念だ。