前に日記で「うたばんで見た坂本龍一の無反省さにゲンナリ」とだけ書いてたのでその話を。もうひと月以上前、教授が各局の歌番組をプロモサーキットしてて、小山田がギターで入っていたのでみんな見覚えあるんじゃないかと思うんだけど、そん中でうたばんでのトークが、改めて教授というのはどんな人なのかというのを浮き彫りにしていた。会話はぜんぶうろ覚え。にしても、ダウンタウンにもタモリにもできない切り込み方をしたタカさんは、自分にしかできないことがあるとよく知っていてすごい。

シーン1
石橋「ニューヨークに住んで、もう何年目ですか」
坂本「○年、かな」
石橋「そうすると、日本に来るってのは教授にとってどんなことなんですか」
坂本「うーん、そうね、遠洋漁業?」
大意:僕は音楽の功績を西洋で認められ、向こうに移住して○年を経て、ようやっと宗主国側の人間になれました。いまや僕にとって日本は故郷じゃなく搾取する対象であるところの植民地です。

シーン2
石橋「いままで来た仕事の依頼で、いちばんうれしかったのは?」
坂本「バルセロナオリンピックの開会式。ちょっと考えられないでしょ、ヨーロッパの国で行われるオリンピックの開会式を日本人の音楽家にやらせるというのは。日本でやるオリンピックの開会式をケニアの音楽家に頼むようなもんだよね」
大意:欧米諸国は一等国で日本は二等国でケニアは三等国です。

彼が完全に西欧的な内面を獲得しつつあることはつとに知られていたけど、ここまであからさまだとこちらが恥ずかしくなってくる。そうして映し出された教授のステージには、中央に西欧楽理の象徴である「大ピアノ」が鎮座ましまし、その周囲にコリアンラッパーとチャイニーズコキューと小山田ギターが配置されている。これらエスノ要素は楽曲のコアに一切触れさせてもらえることなくトッピングされ、要するに単なるスパイスとして搾取されているにすぎない。悪夢のようなワールドミュージックの再来だ。

別に教授がそういうやり方で延命していくのは勝手だけど、あれを若い子たちや同世代が褒めるとしたらそれはすごくイヤだな。スケッチショウが小山田を起用したのは共闘だったけど(細野さんがそう言ってたからそうなんだろう)、教授のはあれ、ほんと、客寄せパンダつうか話題作りでしかないよ。雑な言い方になっちゃうけど教授は音響なんてほんとどうでもいいんだと思うし、実際楽曲はそういう音韻オリエンテッドな造り方をされている。そんでこっから先は俺の意見だけど、彼のやり方に未来はないから若い人はもう繰り返しちゃダメだよ。新札、福沢諭吉は変えてほしかったな。

それでついでに書いておかなきゃいけないのはロスト・イン・トランスレーションのことで、思いの外悪くない映画だったけど、やっぱりあれを褒めるわけにはいかない。つづきは後ほどもしくは明日。

童仙房
草川さんに教えてもらった、京都南部の高原集落。明治期に失業した士族階級向けに開墾された完全に人工的な土地で、その閉ざされ感と高原の抜けの良さのアンバランスがいい。
僕はいつも思うのだが、三重奈良京都滋賀4県にまたがるこの辺りの山の深さというのは全国的にみても特殊な感じがある。別に深山というなら他にいくらでもあるんだけど、何ともいえない妙な気分がつきまとうのだ。忍者の里としておなじみ伊賀・甲賀や、痛ましい事件で一躍全国区となった月ヶ瀬村もこのエリアである。あとこの一帯の国道がほぼすべて上野に収束してるのもちょっと。

■月ヶ瀬事件
逮捕時のジタバタ名言「わしのケータイじゃーわしのケータイー」でしか認識していなかった月ヶ瀬事件を立体的に捉える契機になった、渾身の月ヶ瀬ルポ