朝のうちに目覚めて、ひさしぶりにどこかデートスポットみたいなところに繰り出して美味くもないうえに食べにくいことこのうえない形したサンドウィッチでも食べてやろうか、などと浮っついたことを考えるのだが、451は仕事の疲れがたたったかまったく目覚めるそぶりをみせず、けっきょくこの日最初に口をきいたのはもうすでに午後の2時半を回ったころだった。しかたがないので前に行こうと口約束したままで忘れていた荻窪ひなぎくへ。ひさしぶりだが取り立てて触れるべき変化がないのが良いところ、なタイプな店なので触れるべき変化はない。

せっかく荻窪に来たのだからぼぼりに寄らないわけにはいくまい、と思って南口をぐるぐる歩くも、お目当てのぼぼり荻窪店は見あたらず。というか何度行ったり来たりしても、あるはずの場所には花屋があるのみ。潰れたのか! しかたなく西荻に移動して、執念深く西荻店で食す。僕が小倉とモカ、451がキャラメルと絞りたて牛乳、ふたたび僕が桂花酒とカボチャ。桂花酒はハッとさせられるさわやかさ。完全に香りで食べさせる。水あめやゲル化剤など増粘用途の材料を排除した独特のベースアイスは、ミドル昭和のレディーボーデン以来えんえん受け継がれてきたリッチ信仰に対するパンクである。店内は相変わらずエコ&オーガニックな主張が目立つが、エコに振ったらパンクだった(しかもサクセス)、という現象は中央線沿線出自のものが普遍性を得るに至るときに割と見かけるパタンであろう。

古今に寄ってから渋谷へ戻ると偶然ボックルちゃんに会い、それで用事を思い出してユトレヒトへ行ったらそこでまた会っちゃった。ボックルちゃんは何かauのパンフかなんかに登場したらしくて大御所への道を突っ走ってる感じすらある。みんな出世してくれればいいと思う。11月に予定している(えーい書いてしまえ)イラスト集のようなもの、の依頼をする。これから忙しくなる。ほんとはマシンをPBG4に買い換えてから忙しくしたいんだけど、懐事情的に難しそうだ。なぜなら、今日新しいサーフボードが届いたからなんだけどヘヘへ。明日さっそく進水式だ。にやつく口元を抑えられずにワックスを塗り、準備万端で床に就く。

ぼんやりしてたのでおとつい草川さんに教えてもらうまで知らなかったんだけど、地震の噂が飛び交っていてとても興味深い。とにかく2003年のムードとして、ああみんな、ここまでも大地震を待ち望んでいるのだなあ、という確認ができた。予知を出す人が現れるのもそれをメディアが報じるのも人口に膾炙するのも2ちゃんが盛り上がるのも、それはすべてそうあったらいいなあ、とみんなの集合無意識が望んだからこそ起きてるんだよ。ちなみに「地震コワイ来ないで」の反対が「地震来い来い」ではない。このふたつはまったく同種の感情であって、反対は「地震?知らん」である。そんで、そういう人今回少ないんじゃないかな。東証でも話題になったし、相当数の会社で災害マニュアルの確認とか行われている。ここまでみんながリアクション取っちゃうと、地震ほんとに来ちゃうんじゃないの?(たとえば暴漢避けに防犯ブザーを持つ婦女子に限って暴漢に遭いがち、という現象がある。それはもちろん防犯ブザー買ってる時点でその人は暴漢を待望してしまっているからだ)

地震待望マインドの正体にはふたつあって、ひとつはみんなぶっ壊れてしまえー、という終末恐怖/破壊願望なのだが、こちらはいまの社会にそれほど強く感じられない(現実社会がすでに終末的で破壊されてしまっているから、という所見は紋切り型に過ぎるだろうが)。それよりずっと前面に押し出されているのが非常時願望であって、実はこの非常時願望というのは右傾化のコアエンジンでもあるのでまあ今、社会的に蔓延しているだろうことは容易に予想が付いたのだが、ここまでとは思っていなかった。簡潔に断言してしまえば、非常時願望とはドラマツルギーとリアリティ獲得への渇きであり、言い換えれば、大地震(ないしは国防戦・笑)が起きればこう、僕は生きるために本気でしゃにむにがむしゃらに行動するだろう(僕のうだつが上がらないのはこれまで死にものぐるいになったことがなかったからだ。だから非常事態になったら僕はがんばれるし、そしたらなにがしかのすごいグッと来るビビッドな出来事が冴えない僕の人生にも起きるだろう)という、ちょう楽観的な展望のことである。

これはふたつの意味で破綻していて要するにバカなのだが、なぜならそんな事態になったらお前だって死ぬ、って想像が決定的に欠落していて、死んだらヒロイックもクソもない、ってことがわかってないのがひとつ。あと、これがとても大事で太字にしたいくらいなのだけれど、グッと来ることも本気モードも別に、非常時じゃなきゃ起こりえない性質のものじゃ全然なくて、つまりは普段から、明日死ぬ気でいでがんばりなさいよ甘えんな。ということであり、さらに言えば普段から動けねえ奴が非常時に動けるわけねえだろボケー。ってことでもある。言い換えようか? 明日地震で死ぬかもしれないから思い切って好きな子に告白しよう! って思ったところで、彼女が君の告白を受けてくれるかどうかにはまったく関係がない(実際問題で言えば、むしろ危機意識によって相手のスレッショルドが上がっているから失敗するよ・笑)

ただ、そんなことをしゃあしゃあと書いている僕の中ですら先述したとおり、終末幻想にまつわるある種のセンチメントが想像以上に解放されてしまって、なんか大事な友達に意味なく電話しちゃったり、突然夜の闇が怖かった子供の頃を思い出したりとか、あと夕焼け見てピリピリ焦燥感に駆られちゃったりとかした。余談だが地震の前兆であると一部で信じられている地震雲というのがあって、まあその真偽なんかどうでもいいんだけど、これが観測されるのは割に夕方が多い、というのはなんとも納得が行ってしまう。要するに、夕焼けには、あーあの雲こそ地震雲かも、とうとう大地震が来るんだ、なんて、なんてこたない雲にも夢想させてしまうスペクトルが多分に含有されているのだ。いずれにせよ天災不安はそれが求められているからこそ発生し、流布・蔓延する。僕は自分の心にもその欲求を見いだしてしまって、これからはも少し襟を正さなくちゃ(地震だって聞いてもうろたえなくて済むくらい毎日をちゃんと生きなきゃ)な、って強く思った。