アスファルトポストモダン

こないだジェンマのことを書いたせいかな。それがいつからか、覚えてるからちゃんと記すと米不足の年だから93年にははっきりとした形で、若者とオートバイを結びつける価値観がガラッと様変わりしてしまったのを思い出した。端的に言えばそれまでは、従うか従わぬかの差こそあれ、どんなバイクだろうとバイクは速く走る方が善、という圧倒的な合意があったのだ。そしてそれはものの見事に逆転し、路上を速く駆け抜けることは、格好の悪い、みっともない、野暮ったいことになってしまった。こういった反転はユースカルチュアにおいてはしばしば起きることで、たとえばボンタン/標準服や、スカートの短い/長い、のイン/アウトが逆相になってしまった経験のある人は少なくないだろう。

しかしそれが、ことモータリゼーションの話となると少し意味合いが異なってくる。なぜなら車輪を持ったものがより速く走る、というのはその誕生以来休みなく追い求められてきた目的であり、機能そのものなのだ。それが、転倒してしまった。いまや路肩に止まっているバイクを見るがいい。ビッグスクーターにダートトラッカー、それにアメリカンとカフェが少し。怒られるの承知で書けば、要するにドン亀ばかりだ。どのバイクのタイヤを見ても真ん中ばかり減っていて、実際路上で並んでも保守的な走りばかりが目に付き、攻めよう、走り込もうなんて姿勢はこれっぽっちもない。メーカーも販売不振には素直に白旗を揚げてしまい、レーサーレプリカはカタログから早々に姿を消した。

原因はいくつかある。ひとつには、先鋭的なバイクの性能が、人体や交通事情といった与件のキャパシティを超えてしまったこと。確かに乾式クラッチの92年式NSR250R SP に乗ったとき、僕はこんなもんどうしろっつうのかと苦笑したのを覚えている。同時期にはZZR1300が、公道300km/hオーバーの扉を開いていた。こっちは乗ったことないけど、まあどうせいっつうのか、って感じは想像できる。いずれにせよ過激すぎたってわけだ。それでも毎年トップ性能は更新されなければならなかったし、実際ニューモデルごとにそれはなされ、そして我々は喜びつつも途方に暮れた。しかしそれも90年代半ばまで。以降、法規制もあって最新モデルの出力は後退の一途をたどり、今やピーク時の7、8割ほどの出力しか与えられていない。

そしてレアグルーヴの発見。80年代末に始まったこのムーヴメントは、音楽からあらゆるジャンルに飛び火したし、それは二輪車も例外ではない。かつて旧車という特殊嗜好だったカテゴリーはポピュラリティを増し、しかし音楽と違って、その勢いはとどまるところを知らなかった。レトロ・スタイルがカウンターではなくメインストリームを乗っ取ったのだ。FTRやシルクロードが売れ、SRが売れ、以前からあった旧車市場も拡大高騰。フルフェイスのメットはジェッペルに取って代わり、バイクに詳しくない人が見たら、90年代末のバイク駐輪場と70年代末のそれは区別が付かないだろう。悪い冗談みたいだ。いくら格好いいからって、みんな寄ってたかってLisaとかX68000とかアタリ使い出したんだから。

同時にヤンキー文化の敗北も挙げなければならない。僕は74年生まれで出身が立川なんだけれど、ファミマ前に溜まる子供たちは、2個下から突然、スラッシャーみたいな格好になってしまった。クルマはセドリックからハイラックスに、サングラスもレイバンからオークリーに変わって、そしてそれは時期の早い遅いはあっても日本全国似たような事情だろう。そしてバイクに乗って速く走る、という行為は、族とか走り屋とか位相の違いこそあれど、これら駆逐されつつあるヤンキー文化の支配下にあったわけで、膝を擦って走る、なんてのはみっともない行為の最たるものとして突如笑い飛ばされはじめたわけだ。キツネのしっぽ、君も僕もバカにしたんじゃないかな。

さて、と。話を通じやすくするために大幅に端折りまくって書いたけど、こんな昔話が何だっつうと、これが、僕のはじめて身体で感じたポストモダンの運動なんだよね。アカデミズムの土壌を離れた、市井の、実体のポストモダン。だってどう? 機能主義の飽和と規範の解体、時代性の無化・並列、そして都市化とグローバリゼーション。僕はたとえば思想方面で食ってる人に「ところで君の言う近代自我って何よ?」って突っ込まれたりしたら、しどろもどろになって泣いちゃうくらい脆弱あいまいな無教養っぷりでプレモダンだのパロールだのアプレミディだのと軽口を叩いちゃう方だけど(みっつめまちがい)、でもポストモダンって言葉を口にするときの僕はいつも、このオートバイを取り巻く嗜好の変化について思い出す。

そんで常に、ファックって思うんだ。僕は単純バカだから、やっぱりバイクは速く走るために作られていてほしいし、子供たちは速く走らせることに夢中になってればいいと思ってる。そして90年代を通過して醸成された自我を持つにもかかわらず、どうして自分がこんな古くさいモラルとかエシックを持ち出さずにはいられないのか、それはいまだにいまいちわからなくて、ちょっとした違和感とともにこれからの時代のことを考えたりしている。いや別に、単純にカッペでオヤジだから、とか恥かきっ子だから、って理由づけでもいっこうに構わないんだけどさ。でもそれじゃ何も言ったことにならないんじゃないかって気もしてるんだ。(03.9.6)