土曜といえばタバタとサーフィンなはずなのだが、仕事と精神と体調の都合もあって今日は休むことにする。とうとう部屋で原稿を書くことを諦めて、気分転換にと外に出、ネットカフェみたいなところでキーボードに向かう。さすがに時間貸しだと賃料が瞬間瞬間に発生しているわけで、さすがは金にコスいと名高い俺だけあって割とすんなり書けた。というか、書いた。遅れに遅れて原稿を送り、ほっとひと息。あとはのんびり過ごそう。最近、Macに接続したスピーカーからiTunesでMP3を流すのを意識的に控え、CDやターンテーブルでオーディオから音を出すようにしている。同じ曲でも、どうやらなんかそのほうが具合がいいみたい。

そしてきのうのプレイタイムに関して付け加えておくと、俺はここんところのたった1ヶ月で、モダニスムに対するスタンスがまったくまったく変わってしまったんだと気づいた。プレイタイムは前半に莫大な資金を投下したモダニスム全開のセットがバキーンって登場して、後半にはそれがどんどん朽ち、ないしは熟れていく(熟れ寿司って漢字これであってるっけ)。俺はもともとは完全な単純な男根主義モダニストだから、朽ち熟れていくプロセスまで含めてハードなミース建築信者であり、たとえばおしまいのシーンで街がメーリーゴーラウンドになることだって、厳密にモダニズムが通底し渡った世界だからこそ人の息吹が回転しはじめるのさ、とまで思い込んでいる節すらある。

ところが、昨日映画が終わってロビーに出てきたときいちばんに思ったのは、これは書くのも恐ろしいことだが、ガウディが見たい、ということであった。俺はこれまで一切の感心をガウディから遠ざけてきたし、とにかくそれを見ないように見ないようにとばかり生きてきた気がする。あれはグロテスクだし復古的すぎるし固有性が強すぎるし、できればシュヴァルとかボマルッツォとかと同じジャンルに置いておきたい、というのが本音だった。なのに、モダニスムのある種の極みとその破綻をたんまり見たところで思い浮かべたたのは、土と手と曲面でできたガウディの、それもカザ・ミラやカザ・バトリョみたいな完成作ですらない、コロニア・グエル教会で未完成のまま放置されている地下聖堂のことだったのだ。どうやら俺の精神は、ここ1月で緯度を10度は南に下り、野生主義とか口走りそうな場所にある。