やーやー実はこれ書いてるのは25日が始まったばっかりの午前3時だから俺はある意味オプなわけだけれど、そのー要するに、仕事がぜんぶひと段落着いたから非常に開放的な気分で書いているわけだな。そんでその記述されるべき23日の風景というのは真逆もいいとこで、解放の寸前の鬱屈がかなり臨界まで達していたわけで、そんな酷いときの気持ちなんて、いまとなっては思い出せるわけもない。すまんが解放のせいで文体がいつもと変わってしまっている気がするとにかく陽の高いうちにMMと別のMMとをガガッと殴り倒すように終わらせて、さて問題のSVコラムが書けなくてフリーズ、あそうだそれで待ち合わせの時間になっちゃって、瀧ちゃんから電話が来て渋谷に向かったのだった。

6月末には東急文化会館とともになくなってしまう巨大映画館であるところのパンテオン渋谷前は、あららたいへんな行列っぷり。ふーん彼らが毎月半額キャンペーンとかになると息巻いちゃったりするんだとしたら、あの稼働率も嘘じゃないよなあツタヤ。いいね映画の人は。映画を信用している人の数って音楽を信用している人の数よりずっと多い気がするよ。そんで別に多いからどうこうってわけじゃないけど、たとえば前に京橋かどっかで「はなればなれに」の上映があったときの混雑っぷりとか、なんか全員集合!っていうときの動員させるだけの切実さにおいて、映画というのは現代に希有なほどの求心力を持ってるんだと確認したよ。うん。興行っていいよね、とかそういう感じ。

そんで瀧ちゃん連れて2階に上っていくと、もう取り壊しが約束されているバナルな赤絨毯のロビーには肌も露わな場違いキャンペインギャールがいて酒を配っていたりして、中にはいるとステージではタチの曲を演奏しているバンドの人がいるんだけど女の人がドレスなのに対して男のメンバーはびっくりするくらいラフな格好してたり、あとなんかそのロビーでの社交風景とか、いつも試写とか行くと思うんだけど招待客すなわち配給サイドに何らかの縁がある人たちのスカラー波浴びっぷりというか出しっぷりというか呪われた容姿ね。そんで誰か芸能の人が通るんだか知らないけれど無駄にメディアのカメラが連なって待っている、という。とにかくすべてがちぐはぐな感じで、それがもう前菜としてはこれ以上なく良かった。

しばらくするとリョウタさんが来て、タフィちゃんも来て、あとはあー誰々だー、とか誰々だー、とかセレブウォッチンに精を出す。リョウタさんのとなりにインデヴィジュオーが座ったのと、俺の前にいた俺が足蹴にしちゃいそうで危うかったおじさんが薔薇の葬列の人だったのが面白かった。すごい座席の傾斜が急だったんだもの。でもそれがまた観劇感というか凄く通俗的なことを言うとオペラハウスっぽい切り立った感じを醸してくれて、そんでスクリーンは国内有数にどでかくて、単純にあんな大きな布きれって普通見かけることないと思うんだけど、要するに映画とは粒子でもフィルムでも装置でもなくて体験である、みたいな80年代の戯言を思い起こすくらい豊穣な映画体験にこの時点でもうすでになっていた。暗いところに大勢集めてそれぞれに布きれ光見てる、というのはそれがたぶん映画で、じゃあ俺のビデオ100はなんだったんだろうけどあれも別に普通に映画。

そんで掛かったのは70mmでは今晩一度っきりの上映となるタチの「プレイタイム」だった。シネフィルとして息を吸い背が伸びてきた瀧ちゃんやリョウタさんと違ってまったく映画に疎い俺は見るのも聞くのも初めてでとてもウキウキだったんだけど、知らないっていうのはほんとに素晴らしいことで、前評判というか定説さえ入っていないところにバカみたいに奇麗なニュープリントがドカーって目の前で掛かっちゃったもんだから、俺はもう一発でノックアウトされてしまってこの映画がこれまでのどの映画よりも好きになってしまった。なんか基本的に俺はいつも、いちばん好きな映画はそのとき見ている映画で、次点はその前に見た映画な気がするのだけれど、まあそんなもんだ正直なところ。あの空。そんでガラス。鉄。タイルのコンビネーション。フィルムがデカい、とはどういうことなのかを視覚的に強制理解。

帰り出口でユトレヒツと会い振り返ると、小さなおばさんがいてタフィちゃんがあれ金井美恵子よってコソッと教えてくれたので、なんでかわかんないけど忍び足になって走って逃げた。渋谷の町をひさしぶりに原付で流して帰るが体調はさらに悪い。すごい離人的というか乖離症的な感覚になってきてそれはいつかに似てるなあと思ったらいつだったかマルコビッチの穴を見た帰りの背中がちくちくした気分を思い出したのだった。帰宅してさらに闇の中へ。ふじもとさんがもう壮絶に優しいいたわりの電話をくれたのに不義理をしてしまい胃が痛い(笑)。あー書けない。こんなに書けないのは生まれて初めてでビックリだ。世の中はいろんなことが起こるもんだ。