今日の朝イチから、トビオによると淡い恋が芽生えるらしい複数人教習、というのが始まったのだが、案の定ひとりきりで乗っている。悲しい(笑)。そんなことより書いておきたいのは、そうだな、ここ10日くらいだろうか、こっちに慣れてしまってからというもの、身体に変調をきたしている。正確には、感覚器に、と言うべきか。端的に言うと眠いのだ、やたらと。そんで眠くなる条件は決まっていて、テレビか、パソコン。要するにモニタを見てるととにかく眠くなってしまって、すぐにそこらで、畳でも椅子でもベッドでも寝てしまう。もちろん慣れない運転や日々のサーフィンで疲れていることは大いにあると思うのだけど、本や雑誌は不思議と平気。これなんでだろう、って考えてみると、たぶんメディア受容が超オールドタイプになりつつあるんじゃないか、と思ってみた。

視覚で捉えられるメディアはもちろんすべて、光線の集合体であるわけだけど、当然のように光線には2種類あって、それが透過光と反射光だ。で、近代以前の状況を考えてみると、目に飛び込んでくるほとんどすべては反射光で、木も、花も、紙に印刷された文字も写真も絵も、みんな何らかの光源が反射して得られたスペクトルでできている。一方透過光はどこにあったかっていえば、それは太陽だったり、月、星、そして火っていう発光体の他にはほとんどなかった(光源と透過光の違いについてはここでは触れず、一緒くたに扱う)。どうやら透過光にまつわる事象というのは歴史的に神々しさとか崇高さと結びつきやすいものばかりで、それは神々しいものが透過光ばっかりだったからなのか透過光だから神々しく感じるのか、どっちが先かはわかんないけど、網膜to視覚野の認識パターンには、透過光をスペシャルなものとして受容する回路が染みついている。

この性質を利用したメディアの代表選手がステンドグラスで、透過光であるステンドグラスで見るイコンというのは、反射光のそれ以上に神々しく見える。ステンドグラスが宗教画と密接に結びついて発展してきたというのは、すごく合点のいく話だよね。ところがここ100年くらいで、透過光のメディア、というのが乱発されてきたわけだ。電灯を使った信号標識やサイレン灯、もしくはネオンサインだったり、もちろんテレビジョンだったり、細かいところを言えば有機EL液晶からLEDから、そしてパソコンのディスプレイまで、ごまんとある。前に話したように、ほんとは透過光を受け取ると人間はハハーってなっちゃって冷静さを失うようにできてるから、まあネオンサインぐらいまではその性質を演出に利用してきたわけだけど、でもパソコンとなると話が違う。ハハーッどころかむしろ、読解力とか分析マインドが発動するトリガーにさえなっているのが現状じゃないかな。

これがちょうど10年くらい前、第1次デジタルディバイドとして発露した問題の核心だと俺は思っているのだけれど、当時、モニタで文章を読めない人、というのと、別にモニタでも平気で読めるよ、という2種類がいて、要するに後者が、あまりにざっくり言うと現代っ子でありゲーム世代なのだった。透過光に対して旧来のインプットに従いハハーッって感じになっちゃうおじさんおばさんたちと、情報は透過光からやってくる、ということが常態となって久しい若者、という構図が、もうみんな忘れてるだろうけどさ(笑)、あったんだよ。でね、俺はかろうじて(ほんと危うかったんだが。なにせテレビともゲームとも縁のない思春期だったから)若者チームの末席に加わって、その後にはキーボードちくちく叩いてお金を得たりしはじめるんだけど、ここんところで俺はもう完全にそして意図的に、ディスプレイを見ている時間を1日せいぜい1時間くらいに短縮させているのだった。そして野を歩き波を見ている。

要するに反射光生活に回帰しているのであり、それが俺なりの本格的なバックtoスローなのだよ。スローライフとか標榜してチンケなメシ食っても帰ってゲームとかやってたりする奴アホじゃんねー、ということでもある。でやってみたら意外にもすんなりオールドタイプに仕上がりましてね、もう最近テレビのニュースとかテロップばっかじゃん、周縁にへんなインターフェイスいっぱい出ててさ。あれ見てると、一気にハハーッってなって(笑)眠くなる。そんで気づくと俺、パソコン使う仕事じゃーん、と思って恐れおののくのだが、じゃあなぜこの日記がこんな長くダラダラと平気で書かれているかといえば、それはディスプレイを見ずに目をつぶって打っているからだ(これこそブラインドタッチというものであろう・笑)。誤字はあとで直すがかなりの精度で余裕だ素晴らしいぞATOK。眠気を催すのを避けるために目をつぶるというのも酷い俺好みな話だが当面このスタイルで行こうかと思う。

長くなっちったのであとは簡単に。サーフィンは夕方のみ、小波でショボくて、思ったようにぜんぜん乗れない。こりゃマジでサーファー宣言撤回かも。小波で走るのは、大きな波の何倍も難しい。斜面が小さいし、そこに滞在していられる時間も短いからね。<60回目>千倉、ほぼ無風、膝モモ、2時間弱。晩に、いったん普通免許で卒業したTさんが今度は大型と大型特殊を取りに戻ってきた。愛車のデリカを宿舎にデーンと横付けして、サーフボード2本と釣り道具をぎっしり積んで。もう合宿での免許取得が道楽でしかないことを、ぜったい完全に奥さんに見抜かれてると思うんだけど。しかし全国でもそうそう話を聞かないんじゃなかろうか、ここみたいな、命の洗濯としての合宿免許。

晩は一緒に、今度は日本人のいる(笑)カレン、というスナックへ。2時間で2人でビール8本飲んで、ひとり2500円。どういう給与体系してるんだろうあの店。ママはド派手なガラッパチでいかにもな感じだが、店の女の子はみんな30前後で落ち着きがあってすごく普通に話ができるので、死にたくなったりせずに済んだどころかむしろ普通に楽しかった。酔いが回ったTさんは、よしゃあ良いのにクルマの自慢をしたいらしく俺を乗せてドライブに出る。ウーハーを積んでいることをアピールしたいようで、取っ替え引っ替えいろいろな曲を掛けるのだが、残念ながらどれも好みではなく、唐木ちゃんはどんな音楽聞くの? と聞かれても即答するのは難しい。しかしMDの中に宇多田ヒカルがあって、宇多田は良い、好きだ、というとTさんは満足げにcolorsを掛けはじめ、あの死と黄泉の手触りに満ちた曲が大音量で鳴り響いた。

そしてわかったのは、Tさんは完全にハードコアな音響派である、ということだ。敢えて反感を招きそうな書き方をするけど、知性にもセンスにも欠ける元トラック運転手のTさんは、言ってみれば地方にごまんと存在するネット界隈ではDQNと蔑まれがちな人種のある種のイデアだけど、でも彼は低音をぼかすかブーストしながら、宇多田のこの曲(アルバム曲なのでタイトルがわからない)はバスドラがいい、と言った。そしてその曲のキックは、その日聞いた他のどの曲より彼の車のウーハーに周波数特性がマッチしていた。彼は間違いなく肉体感覚として低周波の快楽を理解していて、でもたぶんプロデューサー名とかまで突っ込んで聞いてくれないのがもどかしいけど、でも良く作られたものとそうでないものは完全に聞き分けていたし、その快楽にお金を払っていた。それはつまり、圧倒的に良質な、能動的な態度の音楽ファンである、ということだ。そして宇多田は音響としてきちんと機能していたし、それはそれでものすごいことだ。惜しむらくは彼に、ほんのわずかなダンス・リテラシーがあれば、と俺は祈らずにはいられなかった。