今日はっきり体感したことがあって、それは、あらゆる理念は運動となった時点で瓦解してしまう、ということだ。それを知りつつ行動するアクティビストがいるなら、それは理念への敬意に欠け穢らわしい。知らずにやってるとすれば、それはちょっと人として愚鈍がすぎる。いずれにしても、あまり褒められた人種ではないということだ。俺は理念を愛する者だから、この部屋で、この机で、俺は仕事をし、本を読み、電話をかけ、犬をかまい、日記をつけるだろう。我らに無力を。すなわち祈りを。

昼過ぎに手こずった仕事を終えて、さてどうしよう、ということで、ジャリのフードを買いがてら、大好きなあの子がいるあのお店へ。2時間ほど、それこそ祈りにも似た静かな時間。渋谷へ出てツタヤ、21日から半額キャンペーンで稼働率が急増しそうなので、出払ってしまいそうなものを中心に借りる。少し飲みに出ると、ちょっと我慢ならない客がいて(俺いま反戦デモに参加してきました! という口数の多い低脳)、せっかくの気分をぶち壊されたので仕方なく「おいジャリそこのバカ噛め」と言ったら他の客は凍ってそいつは聞こえぬふりで話を続けやがる。不愉快な奴がいるので不愉快だと言うと不愉快じゃない人は自分が不愉快にさせたんだろうかと心配になるが不愉快な奴は自分は不愉快じゃないと思って不愉快なことをし続けるという不愉快なケースの典型。

リョウタさんと落ち合って一杯、うちの近所に移動して俺はマグロ、彼は牡蠣。帰ってきてモーニングとイブニング。モーニングはもはや惰性。近年ではキリコを読めた頃にひとつのピークがあったが、その面影もない。ブラジャ、カバチ、曹操はお休み、ジャイ今週は平凡、関だけが奮っていた。ブラジャは見識のある人ほどけなすが、俺はいま一度期待をしたい。イブニングは表紙からして奢っている。おせんとさくらん。この両者を並べる趣向が面白いのは、本格を目指すも似非に終始する作品と、似非を自認しながら本格に足を踏み入れてしまう作品の対比であろう。どちらがどちらかは言うまでもないが、だからといっておせんが詰まらないわけではない。昔おせんはエピックソニーである、と書いたことがあった。教養を伴わない歪曲読解による私的消化物には赤面させられるが、その訛りに好ましさがまったく宿らぬわけではない。まあでもこれを拡大すれば君は鶴太郎を許すのか? という大問題にぶち当たってしまわないわけでもなく、しかしながら、別に殺さなくてもいいんじゃない? くらい言えるようになったら俺も大人だろう。あと恋風について俺に一切意見を求めるな。

本日より特別企画、伊賀甲賀ニンニン式プッシュアップ・ワン・ハンドレッド・トレーニング(略称PPPH)を始めることにする。別に腕立てにも100回にも一切の差し迫った理由はないのだけれど、映画が70本まで来て終わりが見えてきたのでなんとなく。方法は簡単。麻の苗よろしく、回数を毎日1回ずつ増やしていくのだ。うわ無理っぽそー。つうか絶対つっかえるだろうが、つっかえたときは筋力アップのプラトーがどこに位置するのがわかって面白いだろう。まさか1回から始めるわけにもいかないので、とりあえず30回から始めよう。毎日文末に数字だけ記していくのでたまにほほうとかご笑覧いただければと思う。30。