今日は電話デー。見た映画も1本半だけ。起き抜け、昨晩掛けたまま寝てしまったマイライフ・アズ・ア・ドッグの続きを見てから校正作業。昨年紛失したクレジットカードが悪用されていた報告の電話。うっわー。ふたたび作業に復帰、ME誌のリスト出し。その後スタイリストにしてライティングもこなす三田ちゃんから電話、1時間半。すげえ酷いことばかり言われて面白すぎ。「アタシやっぱ文章書くの無理だと思うんですよね」そんなことないよ、俺こそほんと向いてないって毎日思ってるよ。ああ、もういっそクルマのディーラーにでも勤めようかな。「何寝言ゆってるんですか、カラキさんみたくリスザルみたいな人からクルマ買おうなんて人がいると思います? そういうのは虎、虎に任せとけばいいんですよ」失礼、いま何つった? 虎の前(笑)。

電話を切って渋谷のツタヤへ。掲示板にみんなが書いてくれたタイトルがやたらめったら貸し出し中で(デモンズ'95まで!)、片っ端からメモしていったのに6本しか借りられなかった。そんなに需要があることに驚愕。まさか誰か、あれ読んで借りに行ったりしてないよねえ。ノンに寄ってから帰宅。リョウタさんと長電話、3時間。これは久々に巨大なギャグ爆弾がドバドバ落ちたような歴史的トークとなり、笑いすぎて明日ドアを開けたら「苦情。摘要:奇声」とか貼られたりしてないか心配だ。切ったあとシーナさんお薦めのロシュフォール。感想は掲示板に長すぎて貼れない(最大2000文字)のでこちらに。最初に言っておくなら、映画見始めて5日目のニュービーにこれだけしゃべらせる言及性の高さは異常だ(笑)。ヌーヴェル・ヴァーグが頭でっかちで口数の多いセクトをファンとして取り込み続けた背景は、それこそモー娘。が言及可能性、つんくの言葉を借りれば突っ込みしろをデザインしたことである種の固定客を獲得した状況と似通っている。人をその作品について何か言わずにはいられなくする力、それを不可抗力にせよ身につけたムーブメントは、悲しいほど忘れ去られることがない。

いま見終わりました。どうしよう、何から言おう。きのうパンクとか言ったけど、言い直す。これはガレージだわ。音像が小さくてガラクタじみた楽しみ。愛と意志は溢れているけど、出てる音はルーズでチープで不器用で、だからといって最低ってわけじゃなくて、それだからこそ愛おしくなるような。

見ていて、珍しく感情移入した人物がひとりいる。監督だ(笑)。ジャック・ドゥミってすごい有名な人だよね。シェルブールは俺ですら高校時代に見てるもん。視聴覚室のライブラリー(戦艦ポチョムキンとかが並んでいて、他に見た記憶がない)で。でも手触りとしては、愛に破れて、煤けてて、うつむいてたのに妙に明るく振る舞ったりして、ちょっと可哀相な印象だ。だってこの人、おとつい見た『雨に唄えば』とかもう熱狂的に好きだよ、たぶん(知らないけど。以下全部妄想)。そんでいっぱい見まくってさ、びっちゃり浸って、自分もやってみたい! って思ったんじゃないかな。そんで運良くシェルブールが当たって、お金がちょこっと自由に使えるようになって、呼んじゃったわけだ、マイヒーローたちを。

撮影前は盛り上がったろうな。ウェスト・サイドとシンギン・イン・ザ・レインがいっぺんにやってくる、自分のフィルムに! でも撮り始めたら悲しかったと思う。もしくは自分はバカにされてるんじゃないかってびくびくしてたと思う。憧れの女性をついに手に入れたところで彼女はもう歳をとりすぎていて、しかしそれでもなお、自分とは住む世界がぜんぜん違うことをまざまざと見せつけられたような。自分がアメリカ人ではなくフランス人であること、恋い焦がれたあのハリウッドはもう失われてしまったこと、なおかつ自分のチームは一生かかってもそれに追いつけやしないこと。圧倒的にスキルもお金も足りないこと。事実はいつでも残酷だ。

だってもう、ラインダンスの設計管理とか比べものにならない感じじゃん、だらしなくて。そんでジーン・ケリーとチャキリスが登場してしまうと、悲しみばかりが画面を支配する。ソロで踊らせてるぶんには、イエーあのジーンが俺のフィルムでお馴染みのアレをやってるぜー、って感じでハッピーなんだけど、群舞となるともう。8時だよ終了後の大爆笑における志村、もしくはスリラーPVのマイケルのように、おなじステージに立っているのにあからさまにコレオの切れ味が違うため、完全に浮遊してしまっている。デュエットはさらに悲惨だ。2人組の片割れとか賠償金ものだし(特にキックのモーション)、ジーン・ケリーと踊り出した瞬間、ドルレアックはまるでオージー娘のように見える。悲しい。甘美だけど。そうそう、唯一お母さん役の人はできる範囲の振りでこなしてて普通に美しかった。あれなんて人?

憧れの存在を部屋に招いて幸せ満点。でも違和感だけが溢れかえる不幸。そしてそれと引き替えに、モードは存分に先鋭化し、趣向と見立ては際だっていく。すべてにおいて意図が行き渡った配色、シンメトリカルな構図、律儀な押韻。大円団に向かって円環が閉じていく、大映画のご都合主義を完璧に再現した語り口。また2人組が出会いを語る場面ではシェルブールという地名が登場し、こうした過去作品へのちなみ、999にハーロックが登場するような常套メタも操作して。楽器屋にはジャンゴが弾いたことで知られるセルマーのギターが陳列されていたりさー、もう俺はなんつうか、WEBかZESTか日曜のfai、もしくはセツにいた、とびきり趣味が良くて手足の短い鼻ぺちゃで地方出身のオシャレさんたちのことを思い出したよ。要するに人は、理由がなければオシャレになったりしない。そしてそれはたいてい憧憬と絶望、与件への呪詛に起因しているってわけだ。

ルグランのトラックは名曲揃いで多幸感溢れ、白山眼鏡のラウンジさんたちはウオーって拍手喝采だろうけど、ビッグバンド時代への憧れを隠さないコード進行(だってこれ64年だよ! アメリカじゃビバップが臨界してモードどころかフリージャズが始まっている)と、どうしても匂ってしまうヨーロピアンな節回しの結婚は、90年代に渋谷系とかくくられたみなさんがやってきたことと何ら変わらない趣味の良さだ。だから彼らがこのサントラに愛を注ぐのも当然か。もちろんこちらが(退行の)オリジナルなわけなんだけど。付け加えて言うならシェルブールでは、形式も曲調も、ヨーロッパにはオペラがあるんだぜー、という意識があったと思う。でも悲しいかな、それじゃやっぱりワールドミュージックになっちゃったわけで(ロシュフォールでもコレオにバレエの所作を取り入れているあたりちょっと悪あがき)、ヌーヴェル・ヴァーグまわりの人たちってのは、どうあがいても悲しみから逃れらなかったんじゃないかな(もちろんその鏡像として、それこそ『巴里のアメリカ人』というか、手に入れようのない貴族のいた過去に欠損感をつのらせるアメリカ人、という構図もあるけど。あ、もちろん未見でゆってる・笑)。

さらに蛮勇を奮って書かせていただくと、ドヌーヴもドルレアックもぜんっぜん美人じゃないよねえ。骨っぽいしケツアゴだし、おっぱいも骨盤も整った形じゃないし、メイクはザラっと粉っぽくてトットみたいだ。で、冒頭のガレージ話に戻るけど、だからといって彼女らがチャーミングじゃないかといったらぜんぜんまったくその反対だし、だらしないダンスもルグラン・ジャズも最高だし、モード意識はハリウッドなんて目じゃないくらい透徹しまくっていて、もうほとんど呪いがかかってるみたいだ。ハイ・ファイとアメリカン・ビューティとフォード・プロダクツ、要するに神話が死んだあとに残されたチャームのよりどころが十全に示されていると思う。映画ではずいぶん早いうちに歴史が終わってたんだね。それが見終わった感想。