ようやっと海行けただよ。ところが今週はタバタ先生が上司の別荘へ接待旅行(! ぜったいその上司の娘も来てて、田端くん、君もそろそろいい歳だし、うちの娘は気だても良くて、とかゆわれるんだ)とのことで単独行。ということは電車。ということはジャリ預けなきゃ、で、誰にも頼んでない。仕方なしにペットホテルの開店までうずうずと待つ。10時ちょうどに店の前に行って、急いで引き返してボード持ってゴー。

これが冗談のように辿り着かない。湘南急行を逃してしまったのはまあしょうがないのだが、座席に着いたとたん、最近とんとごぶさただった強烈な睡魔に襲われてしまい、相模大野で乗り換えるはずが乗り過ごして海老名まで行き、引き返す各駅停車でふたたび相模大野を通過し、ようやく江ノ島行きに乗り込んだところで鵠沼海岸を寝過ごして目覚めたら江ノ島。2時間半もかかってしまった。これほど派手な乗り過ごしは生まれて3度目。外苑前から末広町へ行くのに、外苑前→浅草→表参道→浅草→末広町、っていうのがいちばん恐ろしかった。一生辿り着けないんじゃないかと本気で思ったもの。

しかも、相模大野から乗った電車が悲惨で、座った左が香水と粉の匂いのどギツいババア、右は、あれはなんだったんだろう、就職活動ルックで何か読んでるから、メンタツみたいの読んでるのかな、とのぞき込んだら英語の参考書で、それがthere is, there are構文のところだった。塾の先生、って風でもなくて、いくら考えてもよくわかんなくて想像力が破綻してしまった。胸が苦しくなってきて肩がこわばってくるたびに、途中で乗ってきて藤沢で下車したちょっと草刈民世に似た端正な顔立ちの女の子をちらっと見て(笑)なんとか一命をとりとめることができたが、電車はやっぱ怖い。

そんなわけでようやく鵠沼。海へ向かう歩道を、無言でつかつか歩く。海が近づいてくる。笑いが止まらなくなってくる。もうヤバイ。あるプロサーファーの母親がサーフボードを指してバカ製造器と言ったそうだが、卓見であろう。それにしてももう12時半、例によってまた晴れてしまった。晴れて遅いと何が困るって、海風が吹いてしまうのだ。案の定、強烈なオンショア。海面は荒れ荒れ。砂が巻き上げられてサングラスがほしい。どんどん帰っていくローカルさんたち。でも僕ら週末組はコンディションなんて選んでられないから、さくさく着替えてとにかく入る。

今日はサイドに流れる潮が強くて、どりゃー、とかやってるうちに気が付くと100mくらい余裕で流されていて、その度に上がって元の位置まで歩いて戻る、って繰り返し。新しいことはできなかったけど、反復練習で土台がまた少し固められた感じ。時間が経つごとに風がどんどん強くなってきて、もう乗れる波がほとんどなくなってしまっておしまい。何本かすっくと立てたのだが、立てたところで、今度は横に走る、横に走れたら今度はボトムターン、ボトムターンができたら今度はアップスン、と道は果てしなく遠い。まあ、まだたったの2ヶ月弱だ。鵠沼、強オンショア、チョッピークローズ、2時間半。帰り、目覚めたら新宿だった(笑)。もうー。

八幡駅前はちょっとした改装ラッシュ。ひとつは珈琲館のスタバもどき、ひとつは、よくわかんないけどオーナーシェフのイタリアンが入るみたいで期待。ごくたまに見かける行商のおばちゃんがいたので野菜を少し買う。小松菜もネギも、どれもすごい束で売っていて消費しきれそうにないから見送ろうかと思ったら、いんげんとかと少しずつすくってサービスしてくれた。牛久のほうから来てるとか。たまに山手線で冗談みたいに大荷物の行商さんを見かけるけど、ゲートボールやサーフィンと同じくあれは趣味なんじゃないだろうか、というのが僕の意見で、別に行商なんてしなくても生活には困らない(というか困っていてもあれじゃ足しになるまい)んだろうけど、自分で作った野菜背負って都会に出て、店広げて小銭触って売りさばく、というのは、想像しただけでちょっとかなり楽しそうだ。

ジャリを迎えに行った帰り、徘徊老人というものを初めて見た。派手な色のニット、もんぺライクなパンツ、足は止まってないのだが、5秒に一歩くらいのペースで、しかもその一歩がオーバーじゃなく20cm足らずで、お能、というより大野一雄の舞踏を思わせる、ってそれじゃそのまますぎるか(笑)、前衛的な佇まいだった。首には住所と名前を書いたカードを下げていて、要するに家族は放任主義というか、もう徘徊を止めるよりは好きに歩かせといてトラブルだけは最小限にとどめる、という方針なのだろう。おばあさんは一瞬一瞬、看板やら、電柱やら、道路標識のひとつひとつを噛みしめるように見上げていた。街角のひとつひとつが、遺跡の壁画や露出した化石や嘆きの壁であるかのように。