>>続けざまにやってきた災難がこれで終わるとは思えない。

というわけで、再びハードディスクがおいかれになられやがりました。前回とほぼ似た症状、損害もまあ似たようなもんで。みんなに叱られ半分呆れ半分で言われたけど、一度問題を起こした子は見放して買い換えるのが当然なんですって。フォーマットくらいじゃ病床は除去できない、要するに「ハズレ」つかんだってことなのね。まあ、わかっちゃいたけどね。

>>次にディスククラッシュに遭遇したとき、僕は何を喪失するのだろう。

これはあまりに明白だった。僕はもう喪失なんてしやしなかった。ただ「めんどうだなあ」と思っただけで、感傷的になんかならなかった。そして、いまも問題の起きたハードディスクを使っている。近々換えるつもりだけど、別に捨て鉢とかそういうんじゃなくて、なんというか、もう、あまり、どうでもいいのだ。OSをいろいろ触るのもやめた。まっさらでいいよ。じき慣れて、誰のマシンを触っても使いやすくなっているだろう。アプリもブラウザとftpとユードラ、それにJeditとofficeにアドビさんたちがあればこと足りる。あとATOKか。

そんでもう、バックアップの鬼にもならなければ、データのサルベージもしなかった。「とっときたい領域」のスレッショルドがぐぐーっと、もう地上からは見えないところまで上がってしまった感じ。システムを再構築しているとき、僕はちょっといかれてしまったぐらいの勢いでファイルを捨てた。捨てまくったよ。ちょっと遊んだだけのゲーム、なんかで使ったユーティリティ、仕事のメモ書き、4年前のスケジュール。どれも後生大事にとっておくのもバカバカしい気になってしまった。

ICQやメッセンジャのリストもなくしてしまった。まあいいさ、用のある人が話しかけてきたときにまた作ればいい。携帯のメモリーにしろ名刺ファイルにしろ、ズラッと並んでるのに大きな安心を抱くタイプの僕だけど、でも、もういいや。季節のせいもあるのかもしれない。圧倒的に心細くて、静かだ。悪い気分じゃない。むしろ慣れ親しんだ懐かしい感覚に包まれている。大事にしといた留守電の声、ボタン間違って消しちまった。ガクっていつまで悔やんでるより、こぶし上げてgo! go! go! go!

もういいよ。アーカイブがなくてもやっていこう。ちょうどこないだ、「アーカイブ狂時代」というタイトルの原稿を書いたところだ(編集の都合で掲載時にはタイトルが変わってしまっていると思うが)。もともと人様の何倍も強い執着心のカタマリだったから、いまでもまだ身が重い気がする。ポケットの中がジャラジャラいってて、走り出すとこぼれそうだ。先日、ヤフオクで遊んでたソファとクーラーは売っ払ってしまった。部屋ががらんと広い。雑誌もずいぶん処分した。本も売りに出そうと思う。いらない服があまりに多い。靴の箱が20個もある。いつも同じ靴を履いているくせにさ。

93年頃から不況を背景にすさまじい勢いで浸透していったシンプル回帰のスローガンを思い出して苦笑する。あれはなんだったんだろう、シンプルライフ、シンプルリッチ、シンプルシック、シンプルマインド。そういっていろんな物が増え、売れていった。負け惜しみとプライドが押し進めた精一杯の強がりみたいだった。あれと今日の僕とは何が同じで、何が違うのだろう。

こんなことを繰り返して、年を重ねるごとに、どんどん執着がはがれていくのか。欲望も透き通っていくのか。昨晩遊びに来たリョウタさんは、(たとえそれが恨みであれ呪いであれ)エネルギーはないよりあったほうがいい、と言った。いま、かなり身ひとつな感じに包まれている。玉ねぎの皮を剥いでいったとき、僕にどんなエネルギーが宿っているのだろう、それとも何も宿っていないのか。スタイリストの三田ちゃんは身体性こそ絶対のリアルだ、とこともなげに言ってのけて僕を赤面させたけど、なんか、身体性さえ溶けてなくなっちまいそうだよ、三田ちゃん。