向かいのオフィスから移ってきたモンシロチョウはとっくに夏型です。昼過ぎにAさん来宅。コンビニのサンドイッチを喰らいつつ、僕は仕事、Aはマンガ。陽気は最高だし、風が吹き抜けてく理想的な午後になった。流しっぱなしのラジオから、ピチカートの「陽の当たる大通り」が流れてくる。「バナナの皮」も酷いけど、これもまたとてつもなく救いようのない悲しい曲を書いたもんだね。晴れていて身軽、そんで悲しい。長調の曲じゃないと出せないクリスピーな手触りの絶望、喪失感。

こないだお茶会のときに読ませてもらった山田宏一『友よ、映画よ』平凡社ライブラリー版のあとがきで、コニタンはそりゃもう身も蓋もないことばかり書いていて驚かされたんだけど、あの悲しい芸風は別にいまさら始まったわけじゃないんだなあ、と思う。ちなみにいちばんやめてくれーって思ったのは「僕といっしょに音楽をやろうとしてくれる人がとうとう誰もいなくなって」というくだりで、この発言ってバンドマン(笑)としては、職がないとかお金がないとか僕はやっぱり音楽が好きだ、みたいな告白とはかなり次元が違う切実さを伴った言葉だと思う。あはは困ったなあ、を喚起するような狙いじゃちょっと書けないと思う。

僕が小西さんを好きになったのには決定的なできごとがあって、いや別にそんな大したことじゃないしここに書くのは不適切なのかもしれないけど、でも書こう。前にね、僕と友達の女の子(たいした美人だ)がしゃべっていたところに小西さんがやってきて、友達は小西さ〜んとかっつって懐いて腕に抱きついたりしてたんだけど、そしたら小西さんがこう、女の子の腰に腕を回しかけて、普通グイッと引き寄せてワハハーとかってやっちゃうと思うんだけどさ、そろっと腕回して、手の形まで作ったところでさ、一瞬迷ってスッって引っ込めたんだよね。そのとき、あーこの人、愛らしいなあ、と。失礼千万な話なんだけど(笑)。

インタビューでベッカムがtouch woodって言っていて、そういう精霊的な言い回しを見つけたりするのって外国語を習得するときの楽しみのひとつだったよな、とか学生時代を思い返しつつ、公園のケヤキにタッチ。人は勝手に喪失感でいっぱいになったり空っぽさに気づいて晴れ晴れとした気持ちになったりするけど、世界はそんなのお構いなしに勝手に育って勝手に散ったりしていく。でも僕はやっぱり人だから勝手にどうにかなってくだけじゃちょっと困っちゃうんだけど、ね。