タモ、メールの着信音で目が覚める。同行予定者カゼひきさんにつき丸1日ぶんの予定が白紙に。うわおだいじに&会えなくてものすごくザンネンー。さて。

ふて寝? 昼酒? いや、せっかく起きたんだし、ジャリのためにもいつもより長めの散歩が妥当なところ。少し気温が低いのでしまった革ジャンをもう一度出す。うーん、実に微妙ないい天気。遠くまでよく見えたりはしないけど、浮遊粒子が多いわけじゃないし、澱んでもいない。アスファルトは乾いているけど、地面はところどころぬかるんでいる。湿った空気ではないけど、植え込みの葉の裏にはしずくが残っている。こんな味のお酒を知っている気がするけど、どうにも名前が思い出せない。bpm120のクリアなハウスをMP3プレーヤーに入れて、さあ出発。

というか正確には、生まれて初めて楽曲ファイルの有料ダウンロードってのをしてみたのだ。やってみて、これはシンパシーでしか成立しない種類の商売だと思った。どこでも無料で手に入るものにわざわざお金を払う、っていうのはほぼ喜捨の感情に近くて、要するにお気に入りのアーティストにこれで60円くらい入るのかなあ、とか、ダウンロードランキングであんまり低いのも可哀想だし世の中的にも寂しいよなあ、とかそういう種類のモチベーションしか成立しえない。実際僕はその曲のMP3を持っていたのにやってみたんだから、人はいろんなことをやる動物だ。

これはしみったれたことなんかじゃなく、近い将来のコンテンツビジネスを支える原動力となるものだと思う。パッケージングされた商品に対価を支払うのではなく、制作者への同情(他に適当な言葉がほしいところだ)が僕らに対価を払わせる。シェアウェアオープンソース方面では長いこと議論されてきたことだし、夢見がちな人によってはギフト経済みたいな大風呂敷拡げられがちな話題だけど、きょう僕はそれを体験として実感した。コピーコントロールが利かない時代の商品力について、上原の亜星ビル方面はよく考えた方がいい。でないとそう遠くないうちに足下すくわれちゃうよ。まあすくわれちゃっても一向に構わないけど。

とか言ってるうちに航研通りのY字路を渡って、中央環状線の工事現場で交通整理をやっているSちゃんとあいさつ。ここのところ事故が立て続けに3つ起きたため、災難に連鎖性があるのはなぜか、という話。Sちゃんは川崎から通ってきてる45くらいの男前なおばちゃんで、もう2年半のつきあいになる。前は僕の家の真ん前だったから出かけるたびに「ヨッ」ってやってたし、今はジャリの散歩コースだからやっぱり毎日通りかかって二言三言を交わす。女の子と歩いてるのを見られたりすれば「こないだのベッピンさん誰よ?」ってことになるし、シフトの都合で3日も見かけないとちょっと寂しくて、身体壊したりしてないよな、って気になったりもする。

彼女の気さくさはちょっとダテじゃなくて、近所のおばちゃん連中はもちろん、木島病院の事務員さんや昭和シェルのバイトくん、ラーメン山手のグオトコ(いつも具をペロッて載せる係なので勝手にみんなそう呼んでいる)から東大の先生まで、ここをデイリーに通る人はみんな彼女と「ヨッ」友達だ。ほんとは地理的に近接しているはずの僕たちは、彼女に「ヨッ」って声をかける姿でお互いがご近所さんだということを初めて認識し、たまに会話が始まることだってある。まれびとさんが地域性を回復させる働きの一例だと思う。Sちゃんの持ち場は7月にいったん工事が終了し、またどこか別の現場に配属されていく。

古今はドアを開けずに手を振って通り過ぎ、東大へ。ちょうど駒寮閉鎖の騒動くらいから、東大はちょっとばかり警備がうるさくなった。地元の人の生活通路として解放されてるのに変わりはないけど、犬の連れ込みは注意される。前は警備員のおじさんがあやしてくれたりもしたのにな。注意されるのもお互い気分が悪いので、足早に抜けて商店街への階段を下る。最近できたマクドナルドの角を曲がって淡島通りを目指す。このあたりの住宅街は浮き足だったところが微塵もないのがいい。クリスマスに植え込みの電飾をするようなファミリーはほとんどいない。淡島通りが近くなるとそうでもなくなってくるけど。

松見坂あたりの淡島通りは、たいした交通量もないのに芝生と植え込み付きの中央分離帯があり、ガードレールや歩道の材料は一昔前のままなのが麗しい。北側は駒場の窪地に続き、道路からすぐ急な坂になるので空抜けもいい。いつもどこか寂しげで、乾いていて、ちょっと空気が薄い。この辺の通りではいちばんのお気に入りだ。その坂を下って上って山手通り。タバタ邸をかすめて神泉駅、東電OL殺人事件の舞台となったアパートの向かいにある森さん宅を強襲。昨年秋に2カ月ほど居候させてもらったその部屋は、悲しいかな激変していた。えーとねー、散らかしすぎ。

暮れてきた。松濤公園。ちょっとジャリを走らせてると肌寒くなってきたので古今へ戻り、お茶を一服。帰宅するつもりが足に変な惰性がついてしまっていて、うちを素通りしてもう少し歩く。もうこの辺りの路地はほとんど踏破してしまったが、運良く通ったことのない脇道を見つけて急な坂を下り降りる。

どこにでもある風景、一度も来たことのない家の前。いきなりめまいがして、すでにとっぷりと暮れた鈍色の空がぐりんと回った。どこだ、ここ。家から100mと離れてないはずなのに。迷ったわけじゃない。ただ、現実との接地感が急に希薄になった。いわれのない不安、原因のない悲しみが後頭部を襲う。出会ったことのない感覚じゃない。しかしなんだこれは。

これはたぶん「季節」だ。僕は直感でそう思った。慌ててPHSを取り出しAさんに電話を掛ける。話すと「スチャにそんなのあったね」って言われて、これ最近加藤くんと、瀧坂と、それに森さんと交わした会話のまんまリピートになってしまった。偶然のアルバムのMOONLIGHT DISTRICT。いまリリック読み返したら自分のあまりに影響されっぷりにびっくりして椅子から落ちそうになった。というかこのアルバムはどの曲もヤバイ。

耳に心地よい声がスピーカーから言う。「ふふ。あと保坂和志?」当意即妙なんてヤボだけど、いつも最高に示唆に溢れた返事をくれるから僕はAさんが好きだ。うん、そう。「季節の記憶」だね。

季節は身近にあるもっとも空恐ろしいもののひとつだ。なぜなら、季節には完全に実体がない。天候や、花や木や土は常に実体を伴って現れる。しかし木枯らしや落ち葉や石畳は晩秋ではない。それらが網膜や鼻粘膜やその他の感覚器を通じて心に飛び込んできた記憶、その集積が僕らの中に晩秋となって立ち現れるわけで、大気や水蒸気や光線はあっても空なんてこの世にない、というのとまったく同じだ(余談だが肛門に重量はない、というのも似たような話だ)。人はこういった計量できない、ボディのない性質の自然物を本能的に畏れる。だからそれらを指して「空恐ろしい」と言う。あと恐ろしいのは女と饅頭で、この3つこそが人類が最初に出会ったイメージという存在だ。イメージとは本来的に恐ろしいものだとつくづく思う。

(冒頭のタモはひどいな、と思ったので追記。タモとはもちろん森田一義のことですが、同時に正午のことであり、眼帯のことであり、アルタのことであり、ジャズ精神のことであります。使用例「明日、タモリにシスコタモリで待ち合わせね」)