モーニング娘。とはなっちのことだった

モー娘。inさいたまアリーナに行ってきました。かなり混乱していて何から書いていいかわからないけど、えーと、なにしろまず、アリーナライブというものに初めて行ったんだよ。恐ろしかった。単純に人、いっぱい集め過ぎ。2万5千人。それだけでもう胸の辺りが怪しくなってきて、気を失いそうになった。会田誠「ジューサーミキサー」のモーヲタ版を思い浮かべてくれればいい。あんなことが毎晩世界じゅうのどこかのアリーナで日常のように繰り返されていると想像するだけで、人間はもう正気の沙汰じゃない領域に入ってしまっているんだ、という確信を得るに至る。

そんでそのモーヲタさんたちだけど、彼らの集合意識が放つフォースは、もうコミケとかとは全然比べものにならないほど巨大かつ奇形的で、正直、自分の住んでるこの世界のできごとだとは思えなかった。ああ、リアリティ希薄、ってのが今日の感想の通層低音だと思う。そんで率直に言うけど、彼らが発散してるのはまごうことなきダークなフォースだと思った。悪食&悪趣味には定評がある僕だけど、ぜんぜん太刀打ちできる質と量じゃなかった。駐車場から会場に向かう途中で、150人くらいで円陣組んで一人一人が娘。への思いを絶叫し、全員がウオーと応えるコール&レスポンス・イニシエーションをやっていたんだけど、それを苦笑で包みきれるほど僕の度量は大きくない。あれはほんとに救済として機能しているのだろうか。

また、ミニモニ。支持層であろう小学生の女の子たち(男の子はほとんど見かけなかった)の祈りにも似た応援には、マスメディアにピュアネスを注ぎ込むことの危うさみたいなものを感じた。彼女らの信託に耐えられるだけの誠実さを矢口、つんくそしてゼティマは保っていけるのだろうか。あそこまで強い思いをメディア上の何かに預けた体験が僕自身にないため、裏切られたときに彼女らがどういうアクションを取るのか予想も付かない。あー、なんか小学生のときにクラッシュギャルズのファンの子がいて、その子の熱狂が醒めるときのあっけらかんとした、そんなもんなかったかのような態度を少し思い出したけど、娘。は自由参加のオーディション選抜をとることによって、クラスメイト性を保ちながら同時にスペシャリティを具現化させているから、少し状況は違うかもしれない。

いずれにせよ、アイドルという語義の正確さについて痛感させられた。ひょっとしてこれは、キャンディーズの頃から連綿と続いてきた現代のメジャーな心性なのだろうか。だとしたら、僕は松田聖子やおにゃん子、それどころかショウビズ全般に関してあまりにも無知だったということだ。いずれにせよ、初めて接するものとしてはあまりに巨大すぎるため、そら恐ろしさに包まれ口がきけなくなる。というか吐きそうに。空腹でよかった。

客電が落ちたとき、無数のケミホタルのきらめきにめまいを覚える。はは、これじゃ冥土だよ(笑)。そして閃光、火薬の炸裂音、努力・未来・アビュリホースター。うわー、小っちぇー! ジオラマの人形より小っちぇー(スタンド席)! 表情どころかメンバーの同定さえままならない。演出にはステージとの距離感を埋めるためのいろんな工夫がほどこされている。よくジャニーズのステージ衣装があまりにテイストレスと言われるけど、その理由がわかったよ。遠くの方までアクションを伝えるためにすごい特殊な工夫を凝らした結果、ああいうコスチュームになるんだね。あとオーロラビジョンにもびっくりした。画面見てるとテレビそのまんまなんだもん。ライブというと少なくとも演者の表情くらいは伝わる距離感しか知らない僕にとって、それは巨大なビデオコンサートと限りなく近似していて、メディア越しのできごとみたいだ。

アリーナに入ったときにはこんな巨大空間でどんな風にスピーカー鳴らすのか想像も付かなかったけど、これはもう圧倒的に技術の粋が注ぎ込まれていた。距離があるからラグは不可避(bpmの速い曲だと半拍近い)なものの、音圧と定位はそれなりに確保されていた。いやこれは凄いことだよ。回っちゃう低域はばっさりカットされているからハウシーなサウンドは成立しえないし、アイドルだからかなりボーカルに振ったミキシングだけど、それなりの解像感はキープしてる。なぜスタジアムロックがああいう構造になっているのか非常に合点が行った。個の観客として聞けば決して歓迎できるサウンドではないというかむしろ十分にヒドイが、これが2万5千人にあまねく届けられているかと思うと、電気で音をアンプリファイすることの凄まじさを実感する。スピーカーのない時代に大衆ファッショは成立しない。

観客とグルーヴについては、まあ想像と大きく違わない状況だったから書かない。ダンスミュージックがポピュラリティを得たなんてやっぱ幻想だし、逆に言えばまだいくらでも音楽と身体性に関して残された余地はあるということ。あと瀧坂から教えてもらったPPPH(パン・パ・パン・ヒュー!:アイドル・チアーにおける最も汎用性を持ったフォーマット。ex.女の子はいつでも耳年増〜♪ アイドル業界ではこれが略語として日常的に流通しているという)を初めて見た。いいんじゃないかあれはあれで。コンサートというのはああいう風景なんだろう。

曲目はいきまっしょい!+ベストヒットといった感じ。「Say Yeah! もっとミラクルナイト」の辻加護アナウンス(青春を謳歌する諸君に告ぐ! 我々は完全に楽しんでいる! さあ諸君たちも共に楽しもうではないか!>まったくだ!)と、武道館をペンテコスタル派教会に見立てたフルユニゾンゴスペル「でっかい宇宙に愛がある」が聞けなかったのは残念。ゴマキの新曲については、戦略としては納得するけど僕は評価しない。「ちょこっとラブ」では市井ちゃんの不在をいまさらながら強く感じた。

客席からは絶え間なくメンバーの名前を絶叫する声があがる。しかし広いアリーナではそれも個の声として届くことはない。ステージ上には2万5千の視線が降り注ぐ。やっぱり規模は質を変容させる。これはテレビの規模だ。僕らにも、たぶん娘。たちにとっても、これは個として対峙できる余地が残された空間ではない。これは体験的な勝手な判断だけど、たぶん1200からせいぜい1500くらいが限度なのかな、と思う。彼女らは集合状の意識に対してテレビカメラに向かうのと同じように歌い踊るし、オーロラビジョンがあろうとなかろうと、客席はテレビの前にいるのと同じようなマスの一部として情念をステージに流し込んでいる。

そんな中、驚きを禁じ得なかったのがなっちの存在だ。僕はモー娘。で誰がフェイバリット? と聞かれればゴマキと答えるだろうし、最もシンパシーを感じているのは矢口だ。矢口の強気の裏に見え隠れするビクついた不安の色は、可愛くてけなげで突っ張る、という思春期女子のチャームを(それこそ現在ブラウン管に映る)誰よりも体現していて、見かけるたびにノックアウトされてしまう。石川の貧相な肌のテクスチュアや辻加護の周到なプレゼンテーション意識、ヨッスィーのキャラメル・タフィーみたいなエルヴィス声、新メンのスキルアップっぷり、そしてゴマキの残酷性、いくらでも彼女らの魅力をあげつらうことはできるけど、でもそれらについてブラウン管以上の何かがさいたまアリーナにあったわけじゃなかった。

たぶんそれは、彼女らが、そして僕らも、アリーナという規模によって演者と観客が対峙する共時性をはじめっからロストして、公開テレビ録画に近い感覚しか抱けずにいるからだろう。台本によってよく統御されたステージは、文字通りショウケースの中で行われていた。達者な飯田がカメラ目線を駆使していたことからもそれは見受けられる。しかし、ただ一人なっちは違った。なっちはケースの外へ出ていた。僕がお金を払ってわざわざさいたまくんだりまで来た価値があったと思えたのは、「男友達」、そして「モーニングコーヒー2002」でのなっちの姿だ。なっちは巨大な客席に対して、語り、歌いかけていた。この空間で何が起きているのか、どんな種類の精神と物質の運動が生じているのか、彼女だけはリアリティを伴って認識しようと立ち向かっているように見えた。

それは「愛の種」手売りから国民的人気を得るまでセンターを守り通した矜持である以上に、彼女自身のタレントであるに違いない。インストアライブからアリーナまでを連続的に経験し、拡大する一方の規模にも負けずライブ性を維持しようとするなっち。しかも彼女は圧倒的な勢いでなだれ込む一方の集合意識を、恐ろしいことにひとり受け止め、受け入れていた。モーヲタさんたちは彼女によってかろうじて守りぬかれたリアリティのおかげで、ステージに向け安心して各人それぞれのフォースを発散することができる。少しオーバーに書けば、凹レンズで彼女の身ひとつに集中放射された熱量を、空に帰しているようにさえ見えた。

冗談じゃない、これじゃナウシカだ。勘弁してくれ。僕はびっくりして少し泣いたよ。そりゃ心療内科も通うだろう。増量もするだろう。普通の人間なら瞬間で死ぬような凶悪なフォースを、1日2セット、ツアーにだって年に何度も出てその身に浴びまくる。アイドルとはなんて過酷で神々しい商売かといまさらながら体感させられた。驚愕した。いままで着ぐるみ脱げとかひどいことゆってゴメン。心の底から尊敬を捧げます。ライブで見るモーニング娘。とはほぼすなわちなっちのことであり、しかもそれは娘ではなく異形の巨大な母であった。ありきたりだけど、それが僕の偽らざる感想だ。

やっぱモーヲタさんたちの毒気に当てられて、帰宅後寝込みました(苦笑)。あと、若い知り合いが会場でグッズの売り子バイトをやっていて、ウヒヒ見かけましたよ〜ってメールが。ぎゃわー。