悪い夢を見ていた。ベッドで同居人が苦しがっている。はっきりとは覚えていないが胸が痛いとか息ができないとか呻きながらのたうち回っている。僕は懸命にそこらの壁や天井に塩を投げつけまくっている、そんな光景。うなされて目が覚め、ささやかな寝息に隣を見ると彼女は何事もなくすやすや眠っている。うはー、夢ー。ふいー。と顔を天井に向き直したとたん、身動きが利かなくなった。マジっすか?

僕は世の中で取りざたされるほとんどの霊的現象をどうでもいいと思っている。下らない、というのではなく、そんなん仕方がないんだから言わずとも、という気持ちだ。うちの母方は海老原というのだけれど、海老原の人間が集まる場所にはクロアゲハが舞い込んでくる。法事の会場に、会食の大広間に、お寺の回廊に。必ずではないが1度や2度じゃない(僕が見ただけでも4、5回あるし、僕が生まれる前からずっとそうらしい)のでもう誰も驚かないし、むしろ来て当然、くらいの印象で、アラおばあちゃん来たわよ、なんて皆勝手に言っている。一般にクロアゲハはさなぎでしか越冬できないのだけど、雪の降りしきる2月の法事にひらひらと舞い込まれると、もうなんか仕方ないなー、って気になるしかない。そういうわけで僕はクロアゲハを殺めたことは1度もないし、見かけると「あ、なんとか暮らしてますー」とかって心の中でちょこっと思う。さておき。

うわー、これは世に言う金縛りだな(笑)。知ってるぞ。僕にだってそのくらいの経験はある。15年くらい前と4年くらい前に、2度だけ。ほんとに動かないかな? 手は、足は? あ、動かない。背中は? 4年前に風呂で金縛りにあったときは散々で、いつもの浴槽睡眠中に顔をお湯に浸けたまま動けなくなってしまったのだが、息が続かなくなって水を呑みはじめても顔は上げられないしもがけさえしない、という中、唯一動かせるのを発見したのが背筋だった。ブラックアウトしかける意識の中、背筋を使って沈んだままの顔を浴槽のふちに押し当て、左頬骨のゴリッという音を聞きながら乗り上げさせてゲホッと水を吐いた。あんときゃ参ったなあ。でその背中だけど、ダメ。動かない。

意識ははっきりしているのに身体が一切動かせない、というプリミティブな恐怖に襲われつつ視線を胸・足方向から天井に移すと、、、移さなきゃよかった。右上方の天井に、青い光のかたまりが揺れている。火の玉とかぼんやり明るいとかではなく、筋と腕を持ったプラズマ的発光、というか、最近の戦隊ものとかでビーム砲を打つ前の、エネルギーが発射口に溜まるときの安いCGに似ている、と思った。色は青色LEDに近い。それが、室内プールの天井に陽光が反射して映った感じで揺れ動いている。しかも天井に描かれたようではなく、アメーバが引っ付いたように高さを持っていることが立体視できる。うわー、参ったなあ(笑)。笑ってるけどもう生涯最高に怖かったんですよ、そのときもどっかで笑ってたけど。

相変わらず声は出ないし身動きも取れない。でだ、これはヤバいな、と思って、いや金縛られてる時点で十分ヤバいんですけど、僕がしたのは(ここ笑っていいです)、心の中で九字切った(笑)。覚えたのは孔雀王ではなくカルラ舞う!(泣)。そしたら、人間の意識と身体のつながりは深いものですね、切ってる最中に動けるようになって、ガバッと起きあがったら天井のモワモワも消えていた。ここに至ってもう抑えようもなくゾワゾワっと怖くなり、うわーって心の中で叫びながら部屋の中を一周跳ね回って、それでも寝ている同居人に「お前、今、今!」って言ったのだが、彼女は肩を揺する僕の手を振り払いながらむにゃっと寝返りを打って向こうを向いてしまった。

時計を見ると2時45分。しばらくイスに座って呆然としていたのだが、何度見上げても天井はもう何ともないし、かといって寝付けそうもないので、眠ったままの若月を部屋に取り残して(笑)、飲みに出ることにした。こないだいっしょに飲んだくれた安部ちゃんならまだ起きてるかな、と思って電話を掛ける。

「お、おー遅くにごめん、いやさー、」
「なに慌ててんの」
「いやさー、」
「あちょっと待っ、ひょっとして」
「何?」
「ううん、どうしたの?」
「いや、ひょっとして何?」
「・・・出た?」
「え?」
「いや、出たのかな、と思って」
「え、えええー! 知ってた?」
「うん、こないだ」
「うわー!!」

言えよー(泣)。17日にうちに泊まったとき、ソファで寝ている彼女が「んガ」とか寝言を言っているのを聞いて、僕は出勤前の若月とクスクス笑ってたりしたんだ。そしたら、それ、リアルタイムで金縛りingだったんだって。縛られてると、北側の天井の方から(ベッドの方だ)サムシングがひたひた自分の方に近づいてくるのが感じられて、それであまりのヤバさに叫んだ声が「んガ」って出た、と。やっぱり意識はしっかりしていて、そのサムスィングと自分との間にいた僕と若月が「わ、いま安部ちゃん寝言ゆったよ、聞いた?」「聞いた聞いた、フフフ」とかって会話しているのを彼女はしっかり覚えていた。えーん。とりあえず明日仕事だというので「おっだいっじに〜」とか言われながら電話を切る。

実はこの体験には伏線がある。うちの家賃は、築36年の建物だってことを差し引いても異様に安い。異様に安いところをさらに値切った僕も僕だが、とにかくこの辺りの相場から考えると、半額とまでいかなくても3分の2くらいの賃料であることは間違いない。そして、そんなにも安い物件であるにもかかわらず、僕が前の部屋を借りて以来懇意にしていた駅近くの不動産屋は、今回の家捜しにあたってこの物件の情報を僕に流さなかった。別の不動産業者との契約が済んだ頃、部屋が決まった旨報告に訪れた僕は、なぜ彼女がここの情報を僕に流さなかったのか少し責めるような口調で問い質した。その答えはこうだ。

「いや、不動産屋には守秘義務ってもんがあって余計なこと言っちゃいけないんだけど、、、敢えて言うなら、そうね、唐木さんは大切なお客さんだから」。しかも彼女は過去にうちの隣室の住人だったことを僕に明かした。それ以上は決して教えてくれなかったけど。で、そんなん聞いちゃったら気になるじゃん。そんで近くの商店のおばちゃんに聞いたりしたんだけど、別に殺人とか自殺とかはなかったようだ。ただ、たまたまかも知れないけど、一時病気で亡くなる人が立て続いたこと、それとある芸能人(名前聞いたけど忘れちゃった。水沢アキ?)がマネージャーでもあるダンナと暮らしていたけど、脱税かなんかで捕まったことを教えてくれた。うーん、そこはかとなくグレー。

しかも、前にこの日記にも書いたし引っ越しや内装の手伝いをしてくれた人はみんな強烈に覚えてるはずだけど、内装工事をする前のこの部屋は、それはもう、殺人現場のような荒れっぷりだった。壁紙は剥がれ落ち、キッチンは汚れ、ヤニの付いた鴨居ライクな四角い蛍光灯(よく民宿にあるタイプの)からはフェルトでできた、しなびた手縫いの人形とお守りがぶら下がっていた。僕が住む前は大したブランクなく、NYさんとおっしゃる帽子職人さんが住んでいたと聞いたが、とてもじゃないが若い女性がまともな神経でひとり暮らししていたとは信じられないほどの殺伐とした空間。おかげで清水はこの部屋を、床も壁もキッチンもエアコンもとっぱらって、ただの箱にするところから始めなきゃならなかった。

それでもこの家の間取りとそれに見合わぬ家賃、ペット可で改装可で日当たり良好な破格の条件に僕は借りることを決めた。迷いがなかったわけじゃないけど、前の部屋を追い出されてからの居候生活も2カ月目に突入していたこともあって、えいやと決めたわけだ。欲をかいたともいうが(笑)。で、このザマ。どーしましょーねー。

というわけで山手通りを歩きながら、引っ越しを手伝ったリョウタさんに電話。やっぱり初見のときのインパクトは相当ヤバかったという。うはー。例によってくだらない話になりつつゲラゲラ笑っていると、あちゃー、今度は道端に人が倒れてますよ。酔っぱらいかな。電話繋げっぱなしでとりあえず軽く蹴っ飛ばしてみる。男だったから(笑)。起きない。参ったなあ。仕方なく肩を叩いたり揺すったりしながら、オニイサーン、ほら起きてー、死んじゃうよー、オラー! 起きロー! とかやってみるも無反応。手の甲をつねってみても反応なし。あらー。とりあえず腕取って脈、手当てて呼吸を取ると両方あり。めんどくさいし救急車呼んじゃいましょうか。

僕は急アルには嫌な思い出がある。昔バイト先での飲み会で酔いつぶれちゃった男の子を、みんなして「寝かしときゃ醒めるっしょ」ってほっぽっといたことがあるのだ。顔が紅から土色に変わったころにようやく慌てて救急車を呼び、命には別状はなかったものの、彼には弱い意識障害が残ってしまった。本人の意向もあって結果的に誰も責めを受けはしなかったが、あのときもっと早く呼んでいれば、の思いはその後の職場を強烈に覆い尽くしたし、たぶんみんな僕のように今でも苦々しく思い出すことがあるんだと思う。そんなこともあって、僕は酔っぱらいに対しては割と軽率に救急車を呼ぶ方だ。なあに、あんなもんタダだ。来るまでに気が付きゃ笑って謝っとけばいい。呼ばずに取り返しの付かないことになるよりずっといい。

「ゴメ、こいつ起きないから救急車呼ぶわ」つってリョウタさんとの電話を切り、「すんませーん、なんか道端に人が転がってるんで拾っといてくださーい。住所は渋谷区〜」って119番。突っ伏してるので顔はよくわかんないけど、吐瀉物はなさそうだから気道確保もしなくていいっしょ、とそいつ道端にほったらかしにして(笑)そそくさとバーSへと向かう(今回諸事情のため伏せ字)。

久しぶりのメンツにやあやあとあいさつをしながら1杯目のビールを傾けていると、店の前を救急車が通っていった。はいはいごくろうさんすんませんねえ夜中に、とか思ってたら、バタンとドア。僕とすれ違いに帰った常連の女性が息切らして駆け込んできた。「ねえいまあっちで救急車にTっち運び込まれてたけど!」ちょっと待て、Tっち? Sさんが作りかけのカクテル放りだして外に向かう。僕も慌てて付いていく。TっちはバーSやAの常連、僕も顔見知りだ。でも田舎帰ったはずじゃ? っていうかひっくり返して顔確認すりゃよかった! うわー。エレベーターの中で「ゴメ、呼んだの俺。Tっちだって気づかなくて」「あーいいよいいよしょうがない」。

走って救急車まで駆けていくと、ストレッチャーに乗ってるのは、うわほんとだ(笑)。Sさんが一緒に乗り込む。外から見ていると、ひゃー、Sさん怖っえ〜! 服ひっつかんでがつんがつん叩きつけてます。ちょっと、そんなにしちゃ、と言いかけた救急隊員を「ダイジョブです、コイツいつもこうなんですよ(ニッコリ)」とか遮って、今度は肩を持ってガツンガツンと、、、ひさしぶりにSさんの凶暴なとこ見た。一生怒らせちゃダメだと再度肝に銘じました。2、3分も続けていると(笑)さすがのTっちもたまらず反応を示し、とりあえず救急車から降ろすことに。

もちろん一人で立てやしないので僕とSさんで担いで、救急隊員にすんませーんとか言いつつエレベーターに乗り込む。ふいー。店に戻ってくるとヨレヨレのTっちを見てみんな大笑い。床に寝かせるとSさんがテーブルの下に転がし入れる。さっきあんなことを書いたのになぜ僕が平気で寝かしておけるかというと、この人、いつもこうなんです(泣)。その姿を見た女の子が死体みたいー、とか言ってるが、僕らははしゃげない。Sさんの奥さんであるMさんの顔が怒りでこわばっているのに気づいているからだ。SさんはTっちをある意味かわいがっているが、Mさんはどちらかといえばその反対。何度か彼に対して出禁を申し渡している過去がある。

はあ、しかしなんともはや。Kくんが近寄ってきて僕に言う。「いや、唐木くんが呼ばなくても誰かが呼んだよ。というか遅かれ早かれこうなるとみんな思ってたし。お店としては自分のとこで飲んでった客が救急車よばれちゃうのは困りものだろうけど」。Tっち東京戻ってたんだ? 「うん、あのあとひと月もしないうちに帰ってきて、でも家ないじゃん、タコ部屋っていうか、半分ホームレスやってるみたい」。ああ。どうやら飲む金もままならず、Sに来るのもひと月ぶりだったとか。あれだけ飲んだくれてた人がひと月もインターバル置けば、そりゃいつも以上に回るよなあ。

ここでTさんのことをちゃんと語るのは切なくてできそうもないけど、やっぱり少し書こうと思う。僕が彼に初めて会ったのはやっぱりSにいたときだった。そのときも酔いどれで、銀髪のカツラを被っていた。その後AやSで会うときもいつでも変わらず酔いどれだった。3回に1度はカツラを被って、自分のことをキャサリンと呼ばせていた。一度だけ、飲んだ帰りの朝、上原のなか卯で会ったことがある。唐木ちゃんじゃ〜ん、これ、あげるよ、と彼が差し出したのは、どこから拾ってきたのか、林葉直子の1冊目のヘアヌード写真集だった。こっちはダメよ、俺んだから。と小脇に抱え直したのは石田えりの写真集で、僕とIはお礼にビールを1杯おごって彼と別れた。

彼が田舎へ帰ったと聞いたのはリョウタさんからだった。どうも水商売の女に貢ぎ込んで、いくらかの借金を作ったらしい。そのことをリョウタさんに話したHさんは、真顔でこう言ったという。ほら、僕とか加藤くんとか、いくらモテないモテないって言ったってたまには可愛い子といい感じになることだってあるし、もしかしたらエッチできちゃったりすることだってあるかもしれないじゃないですか。でも、Tっちは一切ないんですよ。100人女の子がいたら100人に嫌われる、万人いたら、もしかしたら一人ぐらいは好意を持ってくれる人がいるかもしれない、そんなところにTっちはいるわけです。そんな彼が、ちょっと気を持たせてくれた女に入れ上げたりしたって誰が責められますか? 少なくとも僕はTっちの味方だな。Hさん、僕もリョウタさんも味方です。

この日、バーSには期せずして常連のメンツが揃いも揃った。神経症的な絵を描き続けるタンクトップにチューリップハット。郵便局を辞めてから引きこもりに入ったガタイのいいB土方。キー局に転職するも半年でクビとなった、レコードやくざっぷりでは誰も敵わない眼鏡の小男。仕立てのいい白いシャツをまとったアルカイックな美男子は、スピード狂のカメラマン。えなりかずきに少し似た風貌で皆にかわいがられる一方、めきめきDJの腕を上げているマンガ喫茶勤務。スチャのBOSEによく似た風貌でアンテナトークを飛ばし続け、誰もが知っている有名なカフェで誰にも愛されるお調子者。そして前述のナマケモノに似た気のいい朴訥なHさんに、テーブルの下のTっち、誰もがリスペクトする透明な目の底に狂気を湛えたマスター。

臆病丸出しで視線の落ち着かない、いつも犬を連れてジョン・マルコビッチに似たライターふぜい(と勤務1年で15キロ脂肪を増やした、人間不信でインテリくずれの編集者)がその末席に加えられるのかは心許ないこと甚だしいけど、それにしてもキャラの振り分けがよくできすぎている。面白すぎる。まるでメキシコのやさぐれ映画みたいだ。愛すべきチカーノたち。帰りの道すがらリョウタさんとの電話で、そんなことを話した。僕たちはTっちと自分は違うと思いたがるだろう。でもほんとうのところ、微塵も違っちゃいない。あれはずいぶん昔に生き別れになった僕たちの双子の兄だ。僕たちは彼であり、彼は僕たちだ。

僕たちにはほんのちょっとの余分な時間があって、その間に、言ってみればTっちにならないための100の方法をごそごそ試してうまくいったような気になったり失敗したりを繰り返しているだけだ。みんな生まれたときから全てを知っているし、同時になにひとつ知ってやしない。ほんとうのことはバーSにある。ここにいると僕は自分が何者なのか裸にされる気がする。ポケットに詰めたガジェットが多くなりすぎて走りづらくなったとき、僕たちはSのドアを叩く。

──それにしても長い夜だった。帰宅しても寝付けず、延々ハードディスクの整理なんかしているうちに古い日記が出てきて、あまりの恥ずかしさに身悶えながらそれをアップしてみたり、ドムのリストをエクセルからhtmlに移し替えたりして眠気が襲ってくれるのを待った。