似合わないことというのは、あると思う。昨日は代官山のエイトマンが閉店するパーティ。ひさしぶりにパーティらしいパーティだった、ということはつまり愛と欲望と嫌悪と失意と軽蔑と歓喜とがコロイド状に混濁している、ということ。よく見る顔とひさしぶりのと、まったく知らないのと。僕は病み上がりってこともあってちょっと調子を崩していて、ちょっとしたこと、ではないな、自分に直接影響のないことで憤ってしまった。なぜにああも破壊的な感情を解放してしまったのか、まだよくわからない。それくらいとりとめもないことだ。

この腹が立つ、怒る、という感情はほんとうにひさしぶりの再会で、何年ぶりなんだろう、とにかく90年代初頭から覚えがないから、まあ10年ぶりとかそんな感じだ。僕はたいていの怒りに繋がるような情動を悲しみに置き換えてしまう、どうにも弱いところがあるし、それでなければ困った、という方面に走ってしまう。ムカつく、というにのはあまりにも縁がない。いずれにせよ、そういったときに強い語気で吐き出すボキャブラリーはひどく乏しいはずだ。経験がないため育ちようがないのだから。

人前で、しかも運の悪いことに腹を立てた相手がかわいらしい女の子だったのだが、あまりに似合わないことを口走りながら、何を言ってるんだろう俺は、というか、こういう言葉出てくるんだから社会的な刷り込みは意識的/無意識的ないし必要/不必要にかかわらずどんな分野においても静かに進行しているんだなあ、と思った。もしくは、例えば「はしゃいでんじゃねえぞこのクソガキが」とかいうのは通常僕が受けるべき言葉であるはずで、つまり人は浴びせられた言葉を自分の語彙として蓄えていく、という言語習得のファーストステップが経験的にわかったようなものだ。

いずれにせよ、みっともなかったことは間違いない。近くにいて制止に入ろうとした若い男の子に「すっこんでろガキャ」なんて口走ってしまったことなど、いい笑いのタネだ。もし取っ組み合いにでもなったら秒殺間違いなしなのに(僕が)。しかし、正常位を30年間貫き通した夫婦が駅弁にトライするとかならともかく、こういった慣れないことはするもんじゃない。後味悪いわ恥ずかしいは退くに退けないわ誰も幸せにしないわ、ろくなことがない。解放するなら駅弁方面の衝動にとどめておく方がいい。感情操作、か。本日はたいへん脳の足りない、というか抽象操作が拙い文字列でお送りいたしました。

今日は古今に長居。お茶で酔っぱらう。