簡さんとの捏造対話

(追記:メールをくれたみなさんありがとうございます。まさかトミ子からまで来るとは思いもしなかった。普段ないほどの反響を読んでちゃんと書いとかなくちゃ、って思ったんだけど、実際に簡さんが言ったのは下の「心がヒマ過ぎる」ってフレーズだけで、あとはぜんぶ僕が脳内でひとりで語り合ってるだけです。普段簡さんとしゃべっているときの頻出フレーズははたびたび出てきますが、だからといってこんな会話があったわけではありません。心の中の誰かと話してみる、というのは最近よく試す手法で、自己イメージと他者イメージを明確にしてくれる働きがありますが、あんまやってるとただのキチガイになっちゃいます。僕は小説家じゃないし、なりたくもない。)

さて、ジャリだ。僕はどこまで行っても自分以外に興味がないので、生き物なんて面倒みることになるとは思ってもいなかったし、周りのみんなも本当に飼うとは思ってもみなかっただろう。でもね、いや、ジャリのことは少し寝かせておこう。父性のロールプレイングだとか、教育と虚栄の問題だとか、あとは厳しさと劣等感のダブルバインドとか、それから人は育てられたようにしか育てられないのか問題とか、遊びってなんだどうやってやるんだろう、とかそこらへんの話。やっぱり自分に関するアンテナ・トークですけど。

今日は森さんを引きずり回してリョウタくんに絡んだあと、簡さんと長く話した。僕がここに引っ越してきてからだから1年半のご近所付き合いになるんだけど、簡さんにはお客さんが、僕には仕事があったりして、お互い長く話すのは3ヶ月にいっぺんくらいだ。今日、僕はいろいろな条件が重なってかなり抑制が利かない状態にいたので、見かねて口を出してくれたのが始まり。彼女の日本語は決して完璧ではないけれど、最初に話したときちょっと驚かされたくらい、人のことを洞察する知性を備えている。語彙を操れないぶん、むしろまっすぐな言い方さえ心得ている。

いわく、唐木さんは心がヒマ過ぎるんです、と。

ここからは簡さんを在日アジア人ライクに、さすがになんとかアルヨ、までは言わないけどややカタコトな、促音と撥音が落ちがちで変拍子に長音が絡む滑舌でしゃべらせる。というか、僕が簡さん役で勝手にしゃべる。やや教条的でプラグマティックな響きが鼻につくけど、それは彼女の日本語の語彙がそう多くないためで、彼女はそんなに道徳的な人間ではない。僕はイメージとニュアンスを的確に伝えようと、下手な翻訳文学のせりふを読んでいるように話す。衒学的にデコレートしてしゃべっても通じやしないから、自然と普段口にしないようなプレーンでこっ恥ずかしい言い回しで返事をする。


そりゃ、あなたは自分のことばかりかもしれないです。でもそれならそれでもっと自分三昧になったらどうですか。そうすれば、あなたがたくさんのものやことをダメにしてたことに気づきますから。

──簡さんにはお茶があるでしょう? でも僕はそんなに夢中に打ち込める何かを持っていないんですよ。

それは違います。私はお茶に人生を注ぎ込んでいるように見えるけど、それはただの見かけですね。私が夢中になっているのは私の人生についてです。題材は、あなたも知っているようにお茶です。ヒヨシ(息子さん)の食事をおろそかにしてまで、良い母親ではないことわかっていてもこのお店に打ち込んでます。でも、私がほんとうに打ち込んでいるのは私の人生、自分の人生を遊び切ることについてです。誰でもお茶と出会うわけではないですけど、誰にでもその人の人生はありますから、その意味で私とあなたとに決定的な差はないですね。

──うん、でも僕は、自分の人生は何のためにあるのだろう、とか、自分は何になりたいのだろう、どうありたいんだろう、どっちを選ぶべきだろう、といったことを考えるのをほとんどやめてしまったんです。実際には暮らしの中でいろいろ選んでしまっているんですけど、それもなるべく選ぶって気持ちじゃないようにして。だって、そういうのは答えがあまりによくわからないものだし、わかったつもりになって何かを目指しても、その何かになれない自分にいらいらしたり、何かになったつもりで実はなっていないことに失望したりするばかりだからです。ゴールがないと知っているのにゴールを目指すというのは、それを試していた時期もあったけど、いまの僕にはつらすぎます。

それは少しせっかちな考えですね。急ぎすぎで。あなたは欲しいものが手に入っても決して満足はやってこない、とか、楽しい気持ちでいてもその楽しさは絶対なものではない、とか考えているようですけど、それはあなたが自分を遊ぶことを知らないからです。自分を遊ぶというのは変な日本語ですけれど、それ以外に私はうまく言う言葉を知らないですから。
唐木さんは誰かがあなたのためにサービスしてくれるのを待っているように見えますね。でも実際は誰かに翻弄されてぼろぼろになったり、もしくは誰かに利用されて、その人が得をしてあなたが殺されてしまったりすることをとても期待しています。でも、それはあなたが殺すより殺される方が気持ちいいということを知っただけで、どちらもおんなじ。そういう遊び方しか知らないということです。そういう遊びは子供の遊びと私は思います。あなたを殺す人も、殺されるあなたも、夢中になるものをもらわないと遊べない子供です。私はお茶やそれに代わる何かがなくても、自分の人生を遊べるでしょう。それが、私とあなたとの違いです。

──けど、自分の人生を遊べるというのは、僕が何かを目指したり欲しがったり憧れたりするのを止めようと思った動機と少し似ています。僕は自足、自分で足りてるってことね、ということがとても大事だと思っています。草や木は、生を生きよう、と思ってそこにあるわけではありません。山も、川もです。たぶんジャリも、ご飯はいつも欲しがってるけどさ、大きくなるためにいっぱい食べよう、とか、どんな犬になろう、なんて考えて生きているわけじゃないし、割とただ生きているような気がするんです。それは知性のあるなしの問題ではなくて、生きていくうえで、自分という存在に対して何にも欲求を持たない、という態度のことです。
たとえば僕がヒヨシのような背の高さに憧れているとします。実際中学生の頃にはいまの100万倍くらい憧れていました。でも僕の背はこれ以上伸びません。どうしましょう。身体をもっと上手に操れて、マラドーナのようにディフェンダーをかわせたらいいなあと思います。26インチの細いブラックジーンズが穿けて、シド・ビシャスのように長いストラップでベースが弾けたら、とも思います。どこかの大学の先生みたいに、とろけるような言葉を紡いで、新しい考え方を魅力的に紹介できたらいいなあ、とも思います。
けど、僕はヒヨシでもマラドーナでもシド・ビシャスでも大学の先生でもなかったので、その願いは叶いません。当たり前のことね。だから自分ではない誰かになりたいと思うのはやめたんです。これはとても基本的なことですが、ちゃんとわかるまでに時間がかかりました。胸板が厚くて快活な、日焼けしたサーファーの男の子や、細身のブーツカットジーンズに革ジャンを着たハーレー乗りを見かけると、いまでも心のどこかが悲しくなります。彼らをバカにしたり、彼らも現実には多くの問題を抱えていると認識することで憧れを紛らわせられることは知っています。でも、それはしません。ただ、自分は他人になれない、ということだけで十分です。
それと、どんな仕事に就こう、とか、どんな暮らしをしよう、とか、どんな話し方で話そう、というのは自分についての問題です。これもやめました。自分をデザイン、えーと、こんな自分であろうと思ってそんな自分に近づくように心がけることね、をすればするほど、うまくいかずにとてもいらいらしてしまうからです。いまの仕事が自分にとってプラスになるかどうか、とか、自分が他人にどのような風に見えるか、たとえば僕はスマートで賢くてユニークな人に見られたいんだと思いますが、そういうのを精密に心がければ心がけるほど、思い通りにいかない部分がものすごい勢いで増えていきます。だから、判断したり心がけたりするのをやめました。ありがちな言い方をすれば、なるようになる、なるようにしかならない、ということです。そういうのを易きに流されている、といって、あまり好ましくないとする風潮も多くありますが、それは気になりません。流されていく、抗わずに受け入れていくことは、安易さを求めることとはいっしょではないからです。むしろ難しいこともいっぱい起きてきます。

これは余談ですけど、唐木さんは割と強そうで力持ちで男らしい、粗野? な他人に憧れますね。でも自分では頭のいい人のように振る舞おうとしています。あなたはそれなりに頭のいい人だということを私もあなたも知ってますから、自分に対しては、いまあるものじゃ足りない、もっともっと、の方向を求めているということですね。でも他人を見るときは、ないものねだりというか、自分の持っているのとは逆の方向を欲しがるということですね。となると、ふたつの間は広がっていくばかりでしょうから、それは大変なことになってしまいます。

──(笑)

あなたが誤解しているのは、自分で足りていること、自足、ですか? ということがよくわかってないことが原因じゃないですか。あなたは自分を遊ぶことを、陥れられて台無しになっていく自分の姿をニヤニヤ楽しんで見てることと勘違いしてますね。それは遊ぶ、じゃなくて弄んでるだけと思います。それで、欲求不満はしたくないから何も欲しがらない、そうすれば不満もなくなる、と言う。それはニヒルといいますね。あなたの言う自足とは私は思いません。あなたは脳味噌が得意ですから、理想的の姿みたいなイメージをいっぱい作れるでしょ。でも、それだけ理想どおりにいかないこととも多く付き合うことにもなりますね。それは欲求じゃなくて妄想。何々したい、じゃなくて、何々のはずなのになんで? といってもそれは現実ですから仕方ないですし、何々のはず、と言えるほどあなたは王様ですか?
私は自分を遊ぶことで、他の誰かにならなくても済んでいます。知ってると思いますが、私はいろいろダメなとこいっぱいあります。できてないこともいっぱいあります。イライラしたり落ち込んだりしますけど、でもそんなにはしません。それはそういう自分を遊んでるからですね。できないだらしなさをニヤニヤ笑うじゃなくてですね、できるようになろうー、できるようになろうとすることはこれだー、思いますね。なろうー思ってるのにそんなにイライラしないです。なろうとかはやめようー思ってる唐木さんがイライラしてるなのは、なぜだと思うでしょうか。

──それは簡さんが楽しんでいるのが現実の過程で、僕が欲しているのが可能性のない結果だから、ということでしょう。それはわかるよ。たださ、うーんとね、昔の人が言ったんだけど、遊びには、遊ぶ心ってのは4つでできてるんだって。ひとつが競争、比べっこして勝つのね。と、誰かの真似っこしてその人のふりをすること。そんで、これが言いたいんだけど、残りが、自分の予想に反して思いがけず起きてしまうことを見ること、とね、あとあとひとつが、めまいっていうんだけど、えーと、大事なものをオジャンにしてしまったり、危険な目に自分を晒してヒヤヒヤすることなのね。それで言うと、どーにでもなれー、みたいな気持ちで流されたり誰かにめちゃくちゃにされたりするのも、遊んでると言わない?

それは私の言う遊ぶとは違いますね。さっきも言いましたけど、自分を遊ぶ、というのは、お茶を遊ぶもそうですけど、できてなかったことをやる、味わったことなかったお茶に出会う、それで毎日楽しくお茶が飲めることですね。あなたはたとえば遭ったこともないひどい目に遭うことも遊びだ、思うかもしれませんけど、それはたとえば私が前に買ったことのない高いお茶を仕入れるのとは違います。なぜなら最初から自分でひどいこと、とわかってますね。わざわざ自分でひどいとわかっていること、マイナスのことやるのはなぜですか。

──それはさ、バッドテイストというか、悪趣味っていう趣味もあるわけで、いや違うわ、僕はさっき言っためまいって感覚がとても好きなんです。で、僕はたぶん自分の意識ね、観察したり判断したり評価する気持ちがすごく邪魔に思えることが多いわけです。たとえば、僕は自分で自分のこと観察すれば、たとえば男としての商品価値はこのくらいかなあ、とか、自分の、たとえば文章の力量はこれくらいかなあ、とか、そういうのわかりますよね。で、観察したり評価することにかけては割と精密にやってしまう。しかもさっきも言われましたけど、基本的にもっともっとじゃなきゃって気持ちが強いので、要するにいっつも落ち込むわけですよ。ろくなもんじゃねえなって。実際まあそうなんですけど。
めまいっていうのはそういう、客観視とか客体視っていうのかな、自分はどんな風に振る舞っているのか、とか、自分のことをどんくらい、まあたいていの場合どんくらいダメ、って判断するわけだけど、そういう視点を消し飛ばしてくれるんですね。めまいの最中って判断が停止しちゃうでしょ。そうするとなんか、すごい幸せ、というか、全能感に包まれたような状態になっちゃう。現実にはボロボロになっていってるのに。すごい大げさにいうとたぶん蕩尽っていうんだと思うんですけど、それが、甘美というか、くせになっちゃってるんだとは思います。

ところで、あなたにはずるいところありますね。あなたはボロボロになるって言ってもほんとうはボロボロにはなれませんね。それは現実では実家があってお父さんが生きていたりお金になる仕事が入ってきたりいろいろものを識っていたり、つまりあなたはボロボロにもなれないんですね。これはまた少し別の話ですが、あなたは自分をボロボロにしてくれる人はそうですけど、いっしょにボロボロになってくれる人も欲しいみたいです。それで、たとえば私がそうですけど、ほんとにボロボロになれちゃう環境の人もいるんですね。わかると思いますけど。そのようなことを知っていて、ボロボロになりましょうと誘惑するようなことは、すごくずるくてよくないです。

──えー、俺、簡さん誘惑したことないよ。

私誘惑してもしょうがないでしょうよ(笑)。でも、人はものすごく誘惑に弱い。それが悪い誘惑でも、です。ここではいまのところ目に余るようなことはないですけど、私は唐木さんがたまにそういう誘惑出すことを知っています。このお店で、じゃないですから私が言うことでもないですけど、同じアパートに住んでいますから、こんなこと知りたくもないんですが、たまにあなたが…

──してないしてない、してないし知らない。それより、誘惑出してるんだ?

出してますね。それは別に女の子ばかりじゃなく、男の子にも、ズタボロ仲間に引き入れるようなこと言いますね。取り返しの付かないことしましょうよ、みたいな。だから、あなたが私の知ってる間に悪くなったところは、そこですね。いい方向行こうとしてイライラしているはたいへんですけど悪くないです。でも悪い方向楽しむようになったのはすごくよくない。何が悪いことか、いいことかはすごく難しいです。でも、あなたの場合は自分で悪い方向ってわかってる方に行きたがるのだから、単純に悪い。
ラクラしたいもいいですけど、それは、心がヒマだからですね。遊ぶことやめちゃってるからヒマ。自分を遊ぶことしていたら、すごく心は忙しい。あなたは遊べてないか、他人で遊ぶかのどちらか。だから自分の心はヒマになってますね。仕事詰まってるとかはもちろん関係ない。心がヒマです。私はいろいろしたい、なりたい思いますけど、自分を遊びますから自分で足りてる。あなたはいろいろしたいとは思わない、と言うくせに、自分じゃ足りなくてかまってもらったり引きずり込んだりする。それはすごく幼いですね。

──少し整理しましょう。僕がズタボロ好きなのは、それが甘美だからです。なぜ甘美かというと、自分を責めずに済む状態だからです。なぜ自分を責めるかというと、もっともっとを望んでいるのに自分はそうでないからです。だからもっともっとをやめてしまおうと思いました。でも実際にはやっぱりズタボロ好きのままでちょっかいを出しています。いい?

はい。でもあなたそれ、整理しないとわからないくらいの頭ですか。

──整理してもわかんない気がする(笑)。で、簡さんは自分を遊び切ることを心がけています。自分を遊ぶ、は簡さん用語だから、僕が言うと、なんだろう、自分の行動を楽しみに転化させる? んー、言い換えは後回し。とにかく自分を遊びます。足りないことがありました。そしたら、足らせるための行為を遊びにしちゃう、と。たとえばスーパーモデルみたいな体型になりたい、とかは思わないの? 別に何でもいいんだけど、事業拡大して社長になって年収3億、とか、キムタクみたいで身の回りの面倒までみてくれるツバメがほしい、とか、龍井の茶畑買い占めたい、とか、もっと細かく分析できる舌がほしいとか。

それはあったらいいですけど、足りない、とは思わない。自分に足りてないというのは、もっと大切(なこと)。お茶教室の内容もっとわかりやすく、洗い物貯めない、あとは若い人ね。お茶のこと知りたい、身につけたいと思ってる一生懸命な若い人にいろいろ教えられたらいいと思ってる。でも見つからないね。

──全部できることだね。できないことがしたくてキリキリしたりはしないの? 人間って割とそういうことしたいと思っちゃうんですよ。死んだ人ともう一度セックスしたい、とか。無理なんだけど。どうやっても。そこまで極端じゃなくても、できるかできないか判別がつかないチャレンジャーな領域ってあるでしょう? 手の届かないところに成っているけど、ジャンプしたら届くかも届かないかもしれないくらいの高さに成っているリンゴ、というか。それはジャンプする?

しますよ。それが遊びですから。できることをただやるだけ、は遊びとは違います。絶対に無理なことやろうとするのも、それは無茶。お茶が無ければ私どうにもなりませんね。

──うまいね。で、楽しいとかうれしい、はそれで足りています、と。俺は足りてなくてちょっかい出したりイライラしたりする、と。えーと、違いは?

それは自分を愛してるかどうかですね。

──来たなあ。自分を愛してる、はどういうことですか?

それは私が言っても難しい。自分のことだから。でも、あなたがイライラするのは自分を愛していないからで、愛してなくてイライラするからズタボロへ行っちゃうのはわかりますね。自分で自分イジメして楽しんでるだけです。イジメはつまんないですね。

──僕は自己愛みたいなのは割と強い方だと思うんですが、それと自分を愛している、とは違うわけですか、ね。

それは何というか、何々がこれだけできるぞすごいだろエッヘン、とか、こんなに鼻が高いぞエッヘン、はナルシストといいますね。でもそうじゃなく、自分を愛するってありますから。

──正直わからないんですけど。僕は自分の身を守ることにはすごい懸命になるかもしれませんよ。あと、誰かを自分のために利用してやろう、とか、自分の得になることにはすごく敏感だったり。だいたい僕は心の中の関心事といったら自分のことしかないんですよ。たとえばジャリいますよね。そうすると、ジャリと暮らして幸せな僕、とか、ジャリの面倒を見ている僕、とか、ジャリに安全なフードを選んでる僕、とか、ジャリをしつけているように見える僕、とか、その割にほんとに大事なことはしつけられていない僕、とか、ジャリがいることで僕がうれしいこと、とか、こうなってほしいとジャリに僕が望むこと、とか、もう全部自分。僕、僕、僕。僕のインフレ。ジャリはどうしたいのかな、とかってのは見当たらない。
いちばんひどいのが、これまだ椎名にしか言ってないんですけど、僕は一度、事故でジャリを殺しかけているんです。まあ運良く無傷だったんですけど、そのとっさの瞬間にね、僕の脳裏によぎったのは、うわ死ぬ! とか、ズギャ死ぬな! とか、ジャリてめえ! とかじゃなくて、ああ俺は迎えてたったひと月で飼い犬を殺した飼い主になるんだ、ってことなんですね。さすがに身体は助けるべく動いていて、でもその瞬間の頭んなかはそんななんです。たぶん身体が動いたのもちゃんとした飼い主である自分、を守るためだと思うんですよね。もう完全に病なんですけど。

それは自分を愛する、じゃなくて、ただの見栄ですね。あなたが愛しているのは他人の目に映ってほしい自分像で、あなたじゃないですから。そしてあなたは他人があなたのことを見るように自分のことを見ますね。それもヘンといえばヘンです。そういうのを客観視って言うでしょうか? あなたが自分を、他人があなたを見るようなやりかたで見ているというだけです。あなたは他人じゃないから、それじゃ他人が観たことにはなりませんですね。たぶん客観視というのは、他人があなたを見るとどういうふうに見えるのかな、ということを、あなたは他人になれないですから、他人から聞いたり想像したりでわかることであって、他人があなたを見るような方法で、自分で自分を見つめることとは違うように思います。

──あー、すごい発見をしましたね。自分を客観視する、とは観察者である第三者の目に映っている自分を把握することであって、自分が観察者の視線で自分を見る、ということとは違う、と。ほんとかな。なんかほんとっぽいな(笑)。でも確かに、僕が僕の観察者となることはそう難しくないし、自分で自分を観察したところで、僕なりの見解、つまり主観しか抽出できないのはあたりまえですね。ところが、客観視の重要なポイントは、観察者が客体つまり第三者であることで、僕がみんなの一部であることこそあれ、僕とみんながイコールで結ばれはしないのだから、僕は論理と類推を使って、なるべく客体寄りであろうところの客観性を想定するしかない、と。

何か言ってますけど、よくわかんないですね。要するに自分を愛する、のひとつは、自分をよく、うまく見ましょう、ということです。

──あー、そこでなるべく客体に近似した視座を見いだすには、妥当性に到達する摺り合わせスキルが必要で、それがない場合、一般的に言われる勘違いという状態に陥るわけだ。しかも本人は客観視しているつもりだから始末が悪い、、、って、これなんだっけ、ザインが不完全でも理性でゾルレンを導き出せ? ヘーゲルの言う世界との和解って気もするし、いや後得智? くそっ禅か(苦笑)。思い出した、間主観性! そうそう。方法的独我論で主客の摺り合わせオーライって話だ! 忘れてたよそんなの。

ほらもう閉めます。帰りましょう。とにかく、あなたは幼いということです。あなたもそろそろ成人式迎えたらどうですか? 私はあなたが何したら成人式かわかりませんけど、でも、もう成人式迎えてもいい頃です。はい、じゃあ、出て。