デイリーポータルZに「ここはどこでしょう?」という人気コーナーがあって、ご多聞に漏れず私もファンで、もっと言えば古参アピールをしておきたいくらい大ファンである。もうシリーズ40回近いけど初期から見てるぞー!

簡単に言うと提示された風景写真からその撮影場所を当てるというクイズなんだけど、お恥ずかしい話、私はこの能力にたいへんに自信があって、もしこのクイズがオリンピック競技になったら私は、日本代表に入れるかは怪しいが国内選考会には残れてる程度の自信がある。なぜ恥ずかしいかというと、これはたいへんに暗くてキモくてさもしい精神性に裏付けられた競技だからである。

ある写真を目にしたとき、それはどこで撮られたのだろうと考えるのは、ままあることだ。パッとわかるなら、それもいいだろう。でもたいていの場合、わからない。普通の人ならそこで思考が切り替わるのだと思う。それがカラッとした明るい生き方だ。しかし世の中には石の裏に住んでいる私のような人間もいる。じくじくと拡大して何か材料は写っていないかと情報を集め始めるのだった。

何か文字情報は写っていないだろうか。看板でもあれば検索のたねになる。ランドマークが写り込んではいないだろうか。もしあれば、三角法でおおよその地点がわかる。昼間なら影から方位がわかる。マンホールやカーブミラーは写っていないだろうか。自治体のマークが拾えればだいぶ絞り込める。遠景に山か橋は写っていないだろうか。稜線やシルエットに特徴があればこれも特定につながる。

動画ならキャプチャしてつなげてパノラマ写真を作ればイージーだ。地質は、植生は。もっと専門的な話をし出したら夜が明けるが、これが何時間でも集中してやれる。解を得たときのカタルシスもそれなりのものがあるけれど、自分としては何時間でも集中して作業に打ち込めること、その熱中している時間のほうに快楽を見出しているように思うのだが、ひとつ言えるとしたらこれは、Google帝国のもたらした精神性なのだな、ということなのだった。

文字検索と、普通のGoogleマップと、ストビューと、アースモードを行きつ戻りつしながら特定作業は進む。それらがない時代は脳内のストックだけが頼りで、それはあまりに貧弱だった。いつの日かAIが進化したら画像検索で一発特定、まで到達するような気もしている。ところで特定という日本語は2ちゃん由来で広まった。私は2ちゃんにコミットしたことはないけれど、鬼女板特定班の仕事にはやはり驚かされた。クルマのボンネットに映り込んだ景色から住所を割り出していた。あれはすごい。

となるともうひとつ、これはハイレゾ時代の精神性なのだとわかる。アナログ写真の時代はルーペの倍率に作業の限界があったし、コントラストを変えて見やすくすることもできなかった。印刷物だと網点になってしまい話にならないし、デジカメ初期も話にならなかった。やはりメガピクセルあたりから戦えるようになってきたように思う。いまや長辺が2000、3000当たり前で、こうなると腕まくりのしがいもあろうものだ。

常盤響さんがカメラマンデビューをしたとき、いつ写真を覚えたのですかと聞かれて、グラビアのレタッチ作業をしていたら、眼球にスタジオの機材がだいたい映り込んでいるので、どんな写真を撮るにはどんな機材とライティングが必要なのかおおよそわかってしまった、と答える有名なエピソードがあったのだけれど、あれは半分ほんとだと思う。半分はトキちゃん先生ならではの冗談だと思うけど。

さておきこの特定ゲームがなぜ暗いのかといえば、これが執着心という一種のリビドーにもとづいて駆動されているからであり、言葉を選ばなければストーカー的メンタリティのたまものであると思うからだ。おおよそこの特定は、たとえばアイドル・芸能人、たとえばネット恋愛、もしくはフォローしてるだけの関係性しかないネット上の人、のスナップ写真に向けて繰り返されてきた。

よく言われる話だけれど、twitterに上がった「見て!雪!こんな積もった!」なんてベランダショットなんて、われわれ(勝手に我々にしてゴメン)の格好の養分である。私もある時点までは、タイムラインに上がってくるスナップをしばしば、特定ゲームの材料にしてきた。しかし、じきに気づくのである。これ、キモすぎるな。って。なんでキモいかといえば、本人に話せないからである。

「こないださー、雪の写真上げてたじゃん、あれ見て〇〇さんの家、おれわかっちゃった。××マンションの5階の角部屋っしょ! あれ? 6階だった?」即通報だ。本人に話せないというのは、その行為がキモいかキモくないかを判断するのにもっともメジャーな材料たりえる。それであるときから私は、知人友人の上げてくる写真を拡大することを一切自分に禁じた。またちょっとでも関心を持ってる人の写真も、対象とするのをやめた。

相手のことを知りたい、という好奇心は人間を駆動する最大の燃料であると同時に、繰り返すけど、ストーカーまっしぐらの暗い情熱である。ツールが素朴なうちはたいてい達成されやしないので、それを好きに発動させていればよかったように思う。けれどハイレゾGoogle時代のそれは、一瞬のタメもなしに人を犯罪者予備軍まで連れていってしまうように思う。家が割り出せたら現地を見てみたくなるのもまた、人間の好奇心なのだ。手錠手錠!

そんなわけで私はあるときから、撮影者が誰かわからない画像しか相手にしないことに決めた。撮影者がわかっていても、おじいちゃんとかならだいぶ良い。自分のリビドーから遠いので、安心して特定ゲームに打ち込める。そんな折、登場したのが冒頭の「ここはどこでしょう?」だった。最初は一瞬「こんなん企画にするかね、個人の秘め事だろ」と思ったものの、やってみるとあまりにスッキリ楽しめるのでびっくりした。安心感が違うのだ。

パブリックなメディアの企画として個人のにおいが脱臭されているし、撮影者の人間性がしっかり除去されているので、打ち込んでいて罪悪感がまったく生じない。ストーカーめいた情熱をフルにリリースさせても、自分がお縄になるようなリスクがまったくない。鍵メーカー公認ピッキングコンテストがあったら似たような安心感があると思う。ただ一方で、これは特定作業のツリボリだな、管理釣り場だな、という感覚も拭い切れない。

出題者があらかじめ難易度を設定しているから、基本がんばれば解けるのが前提になっている。解けないのが前提の問題に立ち向かうのと、解けるのが前提とでは、やはり気持ちが違う。スケーターをスケートパークにだけ閉じ込めておくのは難しい。パークにあるセクションは、どれもスケートするために作られているからだ。スケートのことなど微塵も考えていない、むしろ拒否しているオブジェクトに挑むのもまたスケーターの習い性で、それはやっぱり魅力的だけれど、すぐに警備員が飛んできて、通報される。

30分走ったけど途中で心肺が上がってしまって、数分休んだ。なので15分2.4km×2セット。腕立ての筋肉痛がすごい。