ドヤ顔で掲出された今日の休校だが、降ったには降ったけどこないだと同じくらいで、ぜんぜん休校レベル、交通マヒレベルではなかった。たっぷりと惰眠をむさぼったのち、不貞腐れて部屋で自習していた。こないだ帰ってきてしまったコンサートのことがいまだにショックで、まだ考え続けている。

もう書いてしまうが、こないだ見て、退屈でたまらず帰ってきてしまったのはチャールズ・ロイドだった。おじいちゃんジャズブルースなのはわかっていたが、なにしろドラムがエリック・ハーランドだ。伝統のフォーマットのなかでキレキレのプレイを見せてくれて、おじいちゃんもそれに触発されて更新されたプレイを…みたいなことを考えていたのだが、実際のところはまったく逆で、ただただお決まりのジャズブルースが続いただけだった。

ただ、周囲のオーディエンス、白人の老年男性が多いのだが、もうそれはそれは、たいへんな盛り上がりであった。これだよこれ! This is it!! それで思うのだが、異なる文化に接するとき、その核心は、こちらが理解できない部分に宿っていることが多い。たとえばカスタムハーレーの本場は当然アメリカなのだが、ものすごい技術もセンスも揃った工房から「なんでこんな」というダサい車体が出てくる。そしてそれが賞を取る。その脇に並んでるほうが1000倍もかっこいいのに。でもそれは我々日本人の目線なのだ。

反転させて和食のことを考えてみよう。世界でポピュラリティを得た和食はテリヤキとカリフォルニアロールだ。言うまでもなくそれは我々の食文化のうちの、外部にいる人間にとって取っつきやすい周縁であろう。我々にとっては明白だが、核心は発酵食品やジャポニカ米にある。話を戻してジャズブルースは、やっぱりアメリカ音楽にとって発酵食品のカテゴリに入るのだろう。そして私は、どうしてもそれを食べつけない。そこで無理に盛り上がることもできない。

バークリーでは(たぶんよそのポピュラー音楽教育の場でも)アホほどジャズブルースをやらされる。和声もブルース、アレンジもブルース、イヤトレもブルース、アンサンブルもブルースで、いまなぞプライベートレッスンもブルースである。そしてそれは、21世紀の日本人たる私の耳にとって、そんなにエキサイティングなものでは、正直、ない。やりこめば面白くなってくるのかもしれないけど。基礎だからやってるって感じ。

でも、ブルースがわかんなくてもいいや、って思えることもある。ブルースがわからないのは俺だけじゃなく教科書もなのだから。われわれが教わる機能和声では、実はブルースを説明できない。ルートのドミナントセブンと、長3度と短3度の共存は「ブルースはそういうもん」という教わり方しかできない(一応後者は♯9thという説明がされるが、実際のところはテンションじゃないと思う)。基礎のキとして教わるものに、実は最大の謎と矛盾が仕込まれているというのは、なかなか皮肉で面白いことだと思う。