親父が死ぬまでの1週間をまとめておこうと思ったのだが、自責の念が先立ってしまってイヤになる。自責というのは一種のエゴだなーと思う。ほんとうは親父のことを考えたり親父と心の中で話したりすべきなのに、自分自分だなーと嫌になる。そしてその、私の独りよがりや我儘が親父を殺したように思え、さらに自責がかさみ、冷たい人間だなーと思うに至る。いっそ刑事か誰かがやってきて殺人罪で私を捕らえてくれないものか。

8/10 府中の介護施設で働く幼馴染を訪ね、今後の方針を相談。すでに老人ホームに退去届けを出し、自宅にヘルパー体制を敷く準備に入ろうとしていたので、在宅介護への切り替えに必要な要件を教えてもらう。その幼馴染と食事中に、親父の鬱の主治医から電話が入る。曰く「原因がホームの環境になじめないことにあるので、転地療法をすすめる。2週間あなたの家で引き取れないか」。いまそれを考えていたところだと言う。

「2週間後に変わらないか悪化していたら入院を勧める。好転していたら現ホームからなんらかの新環境への引越しを検討してほしい」とのこと。同意。そののち親父と面会して、12日に迎えに来るから、しばらくうちで暮らそう、と言う。少し嬉しそうな表情を見せるが、ここを出てもベネッセ(介護施設の運営会社で、親父の中では我が家の財産を狙う悪の企業となってしまっている)が追いかけてくるという妄想を語り始める。

8/11 老人ホームの親父と認知病棟のお袋を見舞った兄から、「お袋の調子が存外良くて驚いた。親父は意思疎通も難しいレベル」とメールがあり、不思議に思う。昨晩会ったとき親父は、妄想こそ出ていたものの、コミュニケーションに問題はなく話しかけたことにきちんと答えていた。このメールに引っかかっていながらスルーしたのが自責その1。

8/12 昼にレンタルの介護ベッドが運び込まれ、なんだかんだグズグズしていて(自責2)、20時ごろホームに到着。居室のドアを開けて愕然とする。目の焦点が合っておらず、リモコンを携帯のように耳に当て、うわごとを繰り返している。国家的陰謀、天文学的借金など。話しかけても反応がない。すっかり完全に狂人の姿。昨日兄貴はこれを見たのか。

まずスタッフルームに走り、記録をチェックさせてもらう。昨日の昼に「話かけても反応が薄い」という記録があった。なんでこんな急変をほっとくかなーと思いながら居室に戻ると、親父は床に崩れ落ちていた。ベッドに腰掛けさせ、やや乱暴に肩を揺すると、ようやく話せる意識が戻ってきた。「待たせて済まなかった。いますぐここを出よう」。

荷物をまとめるのもそこそこに、助手席に座らせ、車を出す。このとき私は真に驚くべきものを見たのだが、1分ごと、それどころか1秒ごとに親父の顔に表情が戻ってきて、意識がしっかりしていくのだった。調布のインターに乗る頃には、今後の介護プランの組み立てについて相談しながら検討するような、理知的な話ができるレベルまで回復した。

それでも、妄想は去らなかった。立体駐車場に車を入れるため私が操作盤に番号を打ち込んでいるのを見ると、「そのパスワードもベネッセに筒抜けになっている。迷惑をかけてしまう」と漏らした。「さっき高速でずいぶん飛ばしたでしょう。振り切ったからもう誰も着いてこないよ」と答える。その晩は常用している睡眠薬も効き、すんなりと床に就いた。

8/13 いま思い返せば、私は少しはしゃいでいたのだと思う。昨夜みるみる親父の調子が良くなったこと、また時限付きで一緒に暮らせることに。午前、親父を連れて向かいのスーパーに行く。娑婆の様子を見せたかったのと、自分で食べたいものを手に取らせたかったのと、回復したら自分で買い物も少しはできるくらいにならないと、という子供っぽい願望があったように思う。

ほんとはそんなこと、ずっとあとに始めるべきことだった。20日近く居室にこもりっきりになっていた親父の肉体は、ただでさえだいぶん弱っていたのだ。もっと軟着陸させるべきだった(自責3)。また望みどおりスーパーのATMで通帳に記帳させる。当然ながら残高は減ってなどいない。午後に兄夫婦が訪れてきて、親父が話せるようになっていることに驚く。私は少し自慢げで、その場を兄に任せ、いったん出社した。

兄の話だと、このとき私が家を出てすぐに、親父の表情が不安に曇りだしたとのこと。また昨日から親父にぴったり寄り添って離れなかったジャリが、この留守中に飲んだ水を戻したようで、それ自体はよくあることなのだが、見慣れない親父はたいへん不安がったとのこと。この不在の時間帯にたいした仕事をしたわけでもないので、家に居続けてても良かったと思う(自責4)。

兄夫婦が17時に去り、私が帰宅したのが20時。危なかった。ドアを開けると、親父は荷物をまとめて玄関に佇んでいるところだった。あといくらか遅ければ部屋を出てしまっていただろう。わけを聞くと、申し訳ない、迷惑がかかる、ものすごい借金を背負ってしまった、といった妄想がふたたび巨大化してしまっていた。なんでもない素振りをしながら落ち着かせ、ベッドに戻ってもらうが、少し寝ては起きてうわごとを言うのを明け方まで繰り返した。

8/14 結局親父がうちに来て、機嫌よく過ごしたのは最初の晩と翌日の昼までだった。この日は日がな、目を離すとビニール袋に荷物をまとめて、それをズルズル引きずりながら出て行こうとしてしまう。迷惑がかかる、この家の団欒を壊してしまう、居場所がない、この世は甘くない、といったフレーズをうわごとのように繰り返し、頭を抱えるのだった。

昼すぎ、そういえば心臓の調子はどうなの、と聞くと「実は昨日バクバクして苦しかった」と。えー、じゃあ医者行く? と言うと「もう治っちゃったんだよ、なんだか、すぐに」と答えた。考えてみると、これが死に至った発作の前兆であったように思う。私は軽く見積もって医者に連れて行かなかった(自責5)。また、この会話だけ妙にもとどおりの、鬱の始まる前の親父のような軽妙な会話だった。

夕方、獣医にジャリの爪切りの予約が入っていたが、親父を独りで家に置いておけないので、助手席に乗せて連れ出す。これもいま考えれば親父の肉体に負担をかけたように思う(自責6)。まったくもって、犬の爪切りなんて来週でもよかった。この帰宅後しばらくして、親父の精神状態は大幅に悪くなってしまい、ホームに迎えに行ったときのような錯乱状態になってしまった。

21時ごろだろうか、精神病院に電話をかけると、ちょうど主治医が捕まった。これから連れていくので診てもらえないか相談すると、ちょうど帰るところなのでこれから診るのは勘弁してほしい、明日の外来前に時間を作るので12時半に来てほしい、とのこと。その晩は親父は一睡もすることなく、立ち上がったり座ったり出て行こうとしたりを幾度となく繰り返しながら、妄想の世界で苦しみ続けて朝を迎えた。

8/15 妻と交代で仮眠をとり、朝の光が室内に射し込むと、親父の妄想がいくぶん和らぐことが見てとれた。身支度を整え、入院になるだろうな、と思いながら病院を目指す。かなり余裕を持って家を出たのだが、途中2度ほど親父がトイレに行きたがり、しかし行けども用が足せない(たぶん前立腺肥大のせいで)というイベントで時間を食ってしまい、約束に5分遅れで診察が始まった。

医師に不満はない。ないのだが、「死にたいという気持ちはありますか」と強く繰り返して認めさせようとするところでは違和感を感じた。あそこで「妄想も強く悲観的ではあるが希死念慮はさほど強くないし行動には移していない」と口を挟めばよかったように思う(自責7)。しかし同時に、昨晩のようにほとんど一睡もできない介護が何日も続いたら敵わんから、入院してもらうのがいいよな、とも心中で思っていた(自責8)。

結果、自殺リスクを勘案して閉鎖室に入院することとなった。私はたぶん酷い環境なのだろうが仕方があるまいと考えた。そこまで自殺リスクは強くないので通常病室でもいいのでは、と言いかけたのだが、口にださなかった。結果としては、そのことが直接的に親父の命を奪ったように思う(自責9)。

親父が連れて行かれ、何枚もの書類にサインしてから病室に向かうと、親父は真っ白な、便器とベッドしかない病室のなかで錯乱のなかにいた。「いやほんと、参っちまうよ」。それが私の耳にした親父の言葉だった。なぜ私が話した、ではなく耳にした、であるかといえば、私はいたたまれなくなって、すぐさま、逃げるようにその病室をあとにしたからであった(自責10)。まったくもって卑怯だな、と思った。

その晩は親父が置き忘れていった睡眠薬を飲んで寝た。翌日8/16は午後からサマソニに行ってファレルとディアンジェロだけ見て、そしてやっぱり睡眠薬をかっくらって寝た。それでも親父が閉鎖から出て普通室に移り、鬱が快癒したら実家で過ごさせたいな、その前にお袋が退院してくるから、お袋の行き場所を決めなければならないな、などとのどかなことを考えていた。あとは17日の日記のとおり。