前の日記から2ヶ月、いささか疲れ申した。鏡を見れば皺深く、ごっそり増えた白髪に笑う。

親父はいったん退院したものの翌々日に心筋梗塞の発作を起こし、しかし渡したばかりのガラケーで救急車を呼んで一命を取りとめた。ICUから病棟へ移床、そしてまた再退院。お袋をひとりにしておけないので、引き続き親族が立ち替わりで立川の実家に通った。お袋は認知症の進行とともに本来的な性格の悪さが露呈し、さすが俺の母だけあるぜ!と感心することしきり。手が付けられないほどの暴君と化していたのだが、看護系の仕事に従事していた義姉がめちゃくちゃな頼もしさを発揮して、家族じゅうがひれ伏すこととなった。

心がけたことといえば、とにかく少々の無理を強いても、普段以上に出歩いて娯楽を得ることであった。ちょうど前の日記を書く少し前から、何を目にしても何にも感じないし食事をとっても味がしない、心象が鉛色に塗り込められて情緒ゼロ、という状態に陥っていた。放っておけば死に至るアレだ。けっこうな頻度でライブハウスに通い、観劇し、レイトショーに滑り込み、少々の贅沢には目を瞑って上等なものを食した。こういうときのための娯楽である。Last night a DJ saved my life.

そんな日々ではあるが、しんどいだけかと言うともちろんそんなことはなく、いつにない癒しを得た日々でもあった。そもそも舞台が4歳からの20年を過ごした実家だ。わざと毎回異なるルートを選んでクルマを走らせると、その景色からは多いなるノスタルジーが発生し、地域の道が完璧にインプットされていることそれ自体に脳が歓喜した。私は周囲がすっかり呆れるほどの自転車少年で、安物の自転車を乗り倒し、いま思えば常軌を逸した熱量で多摩の道路を走りまくったものだ。そのよろこびが甦っては心を躍らせた。

父とはもちろん、ほとんど没交渉だった兄や義姉、姪たちともいつになく多く話した。なにより、まだ新婚といっても差し支えない妻は、とんだ迷惑だろうに献身的なサポートに徹してくれ、お互いのことを踏み込んで確認しあうよい機会となった。怪我の功名とはいえ、家族、そして病苦というのはこうして求心力をもたらすのだな、とわかったようなわからないような感慨に包まれながら過ごしている。職務にも大きく穴を開けてしまっているのだが、大目に見てもらえているとしたらこれもまた有難いことである。あとしばらくで、なんらかの決着をみる予定ナリ。