さらに「この世に偏在する普通の死」の感触は強まっていくわけだが、もうこっからさきは記述しても詮無いことなのでしない。しかし荻窪から中央線に乗ると、その感触どうしょもない立体性を帯びてが立ち上がってきて、僕自身も中央線通勤の経験が半年ほどあるんだけど、こんなに死の予感に満ちた車両によく乗っていたなあ、と感慨を覚えた。降りてからはそれにおかしなドライブがさらにかかって、新宿駅の改札を出たくらいからメーターはピークを振り切り、僕はもう笑うしかなかった。早足でニヤニヤ笑いながら君の顔を覗き込んだ奴がいたらそれが僕だった。新宿は野生すぎる。死の予感ではなく野生の死が歩いている。富ヶ谷に住んでほとんど渋谷区から出ることなく暮らしていると、野生はあまりに覆い隠されていて、脱臭されていて、ちょっと触れただけでも肌がピリピリしてしまう。常々遊び場やどっかでも、みんな規範にニートすぎる、飼い慣らされすぎている、荒れよ、乱れよ、と思っている僕だけど、歌舞伎町を駆け抜けながら、ああこの世には規範がまだまだぜんぜん足りてないんだ、管理がぜんぜん行き届いていないんだ、普段、なんてなまくらな場所を歩いていたんだろうね、と苦笑でいっぱいだった。

リキッドではデートコースのライブ。人並みをかき分けて前の方でリョウタさんと落ち合い、主に客を見ていた。ダンスミュージックって何だろうとずっと考えていた。MCの最中でヤジを飛ばした女の子がブタ呼ばわりされていたが、あんなの菊地さんがナイーブすぎるだけで、俺はあれの何十倍もブタな奴が何百人も集うのがダンスミュージックの現場だと知っているから遠ざかったわけで、ブレイクで手を天井にかざしてるやつ全員ブタに見えたもんだ。ダンスミュージックのトラックはもうめちゃくちゃ用意周到になってしまっていて、手をかざして空からダンスが振ってくるのを待っていればちゃんと与えられるものだとフロアは信じ切っている。天に両腕をかざして札束が振ってくると待ちかまえてる奴とか、トイレの個室を開ける度に誰かが置き忘れた紙袋が置いてあって中には札束が詰まってるんじゃないかと期待するような奴とか、空からラピュタよろしく女の子が降ってくるのを両腕広げて待ってる奴と、どこが違うというのだろう。ダンスは与えられるものではなく発見するものだ。奪うものだ。優秀な装置が、それをなまくらにしてしまった。菊地さんはその辺にすごく自覚的で、常に逸脱するリズムと不協和音と歓楽街の野生性でフロアがブロイラーになるのを回避しようとしているけど、でもいつ取り込まれてしまうのか、ちょっと危ういとも思った。

ライブが終わってタクシーでリョウタさんと途中まで帰り、お茶して二言三言話してから別れると、身体中に何に対するでもない怒りが漲っていて、どうしていいやら制御に困った。とりあえず夜の環七をかっ飛ばすくらいしか、やりすごしようがない晩だった。