とにかく、何が何でも、日の高いうちに散歩に出るのだ、という野望も虚しく目覚めると3時過ぎで、451を叩き起こして慌てて外へ出た。上原の駅近くでコロッケを買うが会計のときに消費税を要求されて、「ああこりゃ絶対不味いわ」と思ったら而して不味かった。肉のはしいにせよ猪俣製氷にせよコロッケの美味い揚げ物屋は、子供のポケットを1円玉5円玉でダブつかせるような野暮は、しないもんだ。

そのまま大山から東北沢をかすめて下北まで歩き、つきまさ、でお茶をすする。しかし当然ながらKちゃんはもういるわけもなくて、でも、それもまたしょうがない、というかなんて言えばいいのか、そこにいた人のおかげでそこが過ごしやすい空間であった、という時間の積み重ねは、それが2度と取り戻せない過去になってしまったとしても、そこにその人がいない、という不在によって過去の過ごしやすかった時間が立ち現れて、不在な現在まで過去の過ごしやすさのつらなりの中にあるような気にさせてくれるので、要するにKちゃんはもうとっくにいないけどつきまさの扉を開けるたびKちゃんの不在はそこに居る、ということであり、そしてそれはKちゃんがいることと同じくらい僕を落ち着いた気分にさせてくれる。というようなことを考えていたけど、けっこう完コピじゃねえ?この段落。

451は長距離歩かせても文句を言わないのが大した美点で、下北を出て池の上から12月文庫とか掠めてフレッシュネスの匂いを嗅ぎ、珍しく東大の北門が開いているので入ってイチョウ並木を歩き、駒寮の不在を感じながら(苦笑)裏門まで抜けて古今であいさつして家に帰るまで、僕の早足もキョロキョロ癖もちゃんとフォローして、歩き遅れたりすることもないし、あと遠くで視界の片隅にちらっと見えた人のことをいまの人すごい服だったね、とか言っても基本的にちゃんと見ているので安心だ。終電でハルコがやってきて、タバタが迎えに来る4時半まで451と何か(同い歳ですね、とかトゥルンカがどうとか、俺にはわかんないこと)しゃべっていた。