土曜日に、ガウディだガウディがどうしたつって騒いでたわけだけど、どうやらその変調はほんもののようで、あらゆる創作物一般における自分の嗜好に妙ちきりんなズレが発生していて、是正しようがない。なにがどう狂ったのかはこれから書いていきたいのだが、いま、パスコアールを聞きながら百年の孤独を読んでいる(爆笑)。何年ぶりかに読むガルシア・マルケスは初見のときとまったく印象が違ってみえる。ひとことで言えば、特殊じゃないのだ。俺は前にこの小説を、特殊なものとして読んだ気がする。西欧と近代からはみ出た、特異な、しかし良くできたものとして読んだ気がする。だが、それは完全にまやかしの配下に置かれた印象だ。この小説に特殊なことなんてほとんどなかった。普通の言葉で普通のことが綴られているにすぎない(そして実際そう受け取られたようだ南米では)。パスコアールもそう。これ異端なんかじゃないよ。ノーマルノーマル。スタンダード。

どうしてそんな簡単なことが判らなかったのか。いつから俺は内面だけワスプになってしまっていたのだろうか、いつから俺は脳内だけ近代自我ってことになってしまったのだろうか。いやマジで。モダニズムが世界のすべてではなく局所的な一様式にすぎない、ということをわかるのに、俺はこんなにも時間がかかった。びっくりだ。自分の中で普通の軸がカシリと切り替わってしまったのを感じる。今度の普通はのびやかだ。おおらかだ。そして個別的でありローカル的であり、金属の型ではなく手でこねられて作られており、言語の外へと敷衍されている。そういうものが人類のスタンダードなんだって俺たちはそろそろ知らなくちゃならない。買い物ではなく、スポーツや掃除や洗濯やセックスによって知らなくちゃならない。わかるかい、買い物だけが毎日の生活の中で特殊なんだ。そしてその特殊な時間が、生活のほとんどを占めてしまっているところに、俺らの異常さがある。君の今日を思い出して。買い物じゃなかった時間、がどれだけ少なかったか、わかるだろう。

そんなことをスケボー漕ぎながら、もはや精神活動のある領域において婚姻関係にあると言っても過言ではないだろう盟友ことねちゃんと話していたら、ラマヌジャンという数学者のことを教えてもらい興味津々(まあ説明すべくもないけど通常の意味においてラブな関係にはないためこういう修飾が気軽にできるわけで、献身的なことねファンの皆様におかれましては俺にカミソリとか犬の生首とか送ったりしないように)。あと突然思い立って江口くんにファックスを送ってみたら好感触(内容はそのうち話す。みんなの助けを借りることがあると思う)、とか。来月は和菓子の記事があるので和菓子のことを考えながら寝る。思い出したけど「赤い薔薇ソースの伝説」のビデオを借りよう(冒頭のガウディ、マルケス、パスコアール話の続き)。あと一応書いておくけど今日で禁煙5日目。たぶんこのまま行けるでしょう。