教習所のアナウンスが流れ、7時に起きる。すぐに着替えて、海へ。サイズアップ! 先月の23日を彷彿とさせる、肩〜アタマ弱のステキウェーブだ。アタマ近いのは繋がってダンパーに崩れてしまうので、肩ぐらいのミドルサイズでトロくないやつを狙う。しかし書いていてふと思い出すのだが、サーフィンを始めるまで、基本的に波というのは定常的に同じものが押し寄せてくるものだと思っていた。たとえば波の大きい日はトラックばかりが通る道路、波の小さい日は軽自動車ばかりが通る道路、みたいなイメージ。しかし現実には、トレーラーからバイクまでが一般の道路みたいに混在していて、もちろんアベレージの大小や車種の傾向はあるものの、その中でベストなサイズ、速さ、崩れ方の波を選り分けていかなくてはならない。さておき素晴らしいコンディション。波情報を見たのか連絡網が回ったのか、平日にしては人がいっぱい入っていて混雑気味だ(みんな仕事はー?)。一度ちょっと酷い前乗りをしてしまい「危ねえぞー」と怒鳴られたが、それでも湘南や千葉北に較べれば人も丸いし取り合いも熾烈ではない。

最初のうちはダンパーに巻かれたりしつつやや苦戦したが、次第にサイズが下がってきて、拾う波拾う波、みんな綺麗にレギュラーに割れていく。こう波が良いと、これまでできなかったことがすんなりできてしまい、笑いが止まらない。ボトムターンが毎回決まるなんて、ほんとに夢のようだ。9ヶ月かかったが、ようやくここまで来たか、という感じ。楽しい。もっと楽しくなりたい。行為そのものが純然たる楽しさに充ち満ちている、というのは、ほんとに得難いことだと思う。文脈や概念操作で楽しみを得ることに関しては幼少時からエキスパートだが、ここまで行為そのものが楽しい、という経験はそう多くはない。セックスやドラッグ、ダンスと較べてみても、その快楽の質にかけて、サーフィンはかなりの上物だと思う。この先もっと乗れるようになったら、俺、どうなっちゃうんだろう。腕が上がってもまだ止められず、えんえん3時間半、充実しっぱなしの波乗りとなった。

宿舎に戻って昼寝。目覚めて少し仕事に手を着け、パソコン教室に向かうも、何か所用があったのだろうか、不在。今日出さなければならないメルマガが1本あったので、対応に窮する。しかたなく、教習所の送迎バスに乗って館山まで足を延ばす。いいかみんな、ネット接続のために40分かけて出かけたんだ。いい話だろ(えー?)。この辺一帯を手がける地元のプロバイダを訪問して、そこで繋がせてもらうことに。ところが電話口でノート持参と伝えていなかったため来客用のデスクトップに案内され、それじゃ困るとイーサの線を引っこ抜いて繋げたところ、DHCPじゃなくて固定でIP振られていて、しかも恐ろしいことに、その端末のIPはその場にいる誰もわからないのだった。コントロールパネル回りはセキュアかけられていて一切触れず、そのPWを握ってるアドミンは外出中。ひー。手詰まり。しかたなく電話線を借りて、ピーだのギャーだのと数年ぶりにネゴ音を聞きながらダイヤルアップするのであった。切ない。

帰りは電車で戻ってきた。高校の下校時刻にぶつかってしまい、駅から車内まで、高校生だらけ。みんな純朴で、それだけに、個人的な幼少期の抑圧のせいだと思うんだけど、底知れず恐ろしさを感じた。どう言えばいいのかな、えーと、んー、大まかに言えば俺、純朴なセクトにはたいてい好かれなかった、って言えばわかりやすいか。ほんとはそんなことないんだけどね。千倉の駅にはTさんが迎えに来てくれて(動機が判然としないほど良くしてくれる)、宿舎に着いたらさあ、ウェットに着替えて夕方の部、行ってみよう! ・・・って、結論から先に書いちゃいますけど、あのね、朝とはだいぶん波質が変わってしまって、2時間近く入ったのに、ああ。1本たりとも乗れなかった。立てなかった、ですらない。滑り出しさえしなかったのだ。まるで半年前に逆戻りしたかのような、圧倒的な無力感と疲弊に包まれて終わったよ。ははははは、ちくしょう。これがサーフィンか。<64回目>千倉、弱サイドオン、肩、朝パワフル→夕トロトロ、3.5+2時間弱。

接近しつつある低気圧のせいで、はやくも夜半には雨とともに強い東風(読みはヒガシカゼでもトンプウでもなく、コチ)が吹き始めた。この分だと明日入れるかどうか、微妙だなあ。そして明日卒検が終わってしまえば、宿舎を追い出されて、この1ヶ月に渡った千倉暮らしもおしまいだ。行く前には1月は長すぎると思っていたし、仕事や社交、なにより自分の精神状態に大きな支障をきたすんじゃないかとそれなりに心配はしていたものの、楽しい楽しいであっという間に過ぎてしまった。精神構造には予想外に大きな変容をきたしたと思う。どんな変容だったのかはおいおい判明していくだろうが、簡単に言えば俺はいままで、いかに必要ないことに時間と労力を注いでいたかが判ったということであり、それを落とす魂の垢すりだったということだ。俺はいよいよ、即時充足的に生きていくことになる。