昨日ここに書いた文字列が某社イントラのポルノ規制に引っかかって不適切なアクセスログとして記録、貯蔵、人事評価の際のリファレンスとして活用、査定下落、上司の別荘にも呼ばれなくなり重役令嬢との縁談破談、ひいては人間不信から男性機能の低下、亜鉛摂取、意図せぬ勃起さえ呼びかねない、といった類の配慮によって書き直しました(なにがなにやら)。

半ば意図的に先延ばしにしてきたジャリの訓練所預けだが、もはや抜き差しならない日付になったところでようやく重い腰を上げ、新たに問い合わせた訓練所が子供時代にとてもよく知っていた場所にあり、そこへ十何年かぶりに行ってみたい、というあやふやな理屈を見つけるやいなや、電話の最中に「じゃあ今から伺います」などと相手が面食らうようなことを言い放ったままヘルメットを取ってすたこらと部屋を出た。犬の訓練所というのはそれなりの敷地を必要とするのでおのずと都市部からは遠ざかることになり、駅からのアクセスも総じて芳しくないので休日にタバタかシイナに頼んで車を出してもらおうと思っていたのだが、いかんせんもう出発までの間に休日はないので自分で行かなければならず、だったらいっそのこと懐かしい道を原付で辿ってやろう、という気になったのだ。

その馴染みのある場所というのは東京と埼玉の境目にある、幅2〜3km、東西10kmに渡って雑木林と谷戸が連なった狭山丘陵と呼ばれる台地のことで、山のない立川で生まれ育った僕にとってそこはもっとも近い冒険の入り口であると同時に、子供なら遭難することもありえなくはない重大な異界でもあった。実家からだとちょうど新宿=恵比寿間くらいの距離があったのだが、小学校も2年に入ると僕は自転車を漕ぎ漕ぎ、異界へのゲートとしてメジャーだった野山北公園まで出かけては親に叱られ、高学年に入った頃にはおっかなびっくりながら林道を巡ることを覚えはじめて、それは中学生の間をピークとして、大学を卒業する頃まで続いた。

たいていは常にひとりで、要するに僕はついてくる友達もなく山を駈けては見晴し台で寝ているような子供だったのだ。キジやコジュケイオオタカ、沢ガニやマムシオオムラサキ、トウキョウサンショウウオ、そしてホンドタヌキにも出会ったし、乱開発や不法投棄も目に入った。ふたつの人造湖は水量を変えながらも怪しげな水面でいつも見る者の心に堆積した不安を掻き立てる。星を見るなら赤道儀を立て、横田から飛び立つ爆撃機の形式も、のちに上ることになる奥多摩の嶺々も覚えた。おかげで若いうちは本を読まずに済んだものだ。六道山の帰りには団子屋に寄り、東福生を回って帰ることもしばしばだった、とかって回想してるともう田無タワーを過ぎ、新青梅街道から丘陵の東端、武蔵大和の急斜面が見えた。わーい。

あとは勝手知ったる、のつもりで回り道も臆せずに思い出ポイントをぐんぐん進んでいったのだが、山口城趾の雑木林が完全に姿を消して大型のドラッグストアになっていたのには驚嘆というかマジで開いた口が塞がらずに羽虫が飛び込んでくるかと思った。どうしてそんなことできるのかなあ。地図なんかもちろん持たずに出たのだが、三つ子の魂の完全理解でまったく迷わず目的地に到着、ずっとバイクのタンクの上に乗っていたジャリはさすがに強行軍が堪えたのか、原付を停めると飛び降りておしっこをした。掃除をしていたスタッフの方にこんにちはー、と挨拶をすると、あらーなんか美人さんでびっくり。こんな僻地で毎日犬の世話ですかもったいねえ、オラと一緒にソンを出るべしゃ(ヤスジ)、とか言いたいのを飲み込んで申し込み用紙に記入して、デートとか誘ったらおこられるかな、とか思いながら現在のしつけレベルやお願いしたいことなどを伝える。

さすがに40km近くも離れると気温は都内より3度近く低く感じられ、暮れてきたこともあって冷える前に一気に帰る。行きはそれなりに遠いなあ、と思いながら走っていたのだが、帰りはもう、夜な夜なバイクで都心へ繰り出していた高校生の頃を思い出したのか、ほとんど何にも考えないまま気づくと山手通りまで辿り着いていた。長い距離、といっても往復で70km強だけど都合2時間くらいをぶっ続けてアクセルひねっている状態、というのがひどく懐かしく、これはまごうことなきヒーリングというかメディテーションの一種だなあ、と思いを新たにする。つうか原付で実家帰れるじゃん! 下り坂なら70km/hくらい出るし、優秀だなあ、(森さんの)モトラ。帰ってきたらエンジンオイル替えてあげようっと。帰宅した後はもろもろの準備、あと残していた原稿1本。時間が経つごとにドアの開け閉めからゴミ箱の位置まで、行動のあらゆる想定内にジャリがいたことが、不在によって明らかになってくる。分離不安を抱えていたのは、犬じゃなくて飼い主の方だった、というありがちなパタン。