詰め物が取れてしまったので神宮前の歯医者へ。さぼってしまってごめんなさい、と言うと、まつげの長い衛生士の子が苦笑いを浮かべて、ああこんなかわいい子がいたんだっけ、と思った。洋服を少し見て、何年も何も買っていないような気分になる。何年も恋をしていないような気分になる。どちらもまやかしだ。ワタリウムに寄って、ヘンリー・ダーガー展。渡多利さんのご母堂がいらっしゃった。ヘンリー・ダーガーについて何かしゃべろうとは思わない。仕事の溜まり具合がリミットを迎えつつあるので(あと残高も)、ビデオとのつき合い方をそろそろ考えなければならない。

ビデオデイズ、はちょうど20日目になる。当初1日3本見れば1月で90本見て仕事に復帰できるかと思っていたけど、もちろんそんなの皮算用もいいところで、いまのところ40本。まあこんなものか。ひとつひとつの作品は大なり小なり心を打ち、僕のようなふわふわした土台の精神は特にだけど、そのインパクトによって大なり小なり位置を動かされてしまう。カーリングのストーンに、大小の礫を、こつりと、もしくは力一杯投げ当てられているようなイメージ。そして、短期間にまとめて、それも速球で大きめの石ばかりが飛んでくると、ふと気づいた頃には自分が把握していたはずの場所からずいぶん動いてしまっている。もともと精神なんてちっとも定常的なものじゃないけど、このペースで座標がずれていくのはけっこう捕捉しづらく、ちょうど髪の毛を金髪にしたのと同じような状態になる。髪の毛を染め変えることは、文化人類学の人たちが仮面について話し合ってきたような効果のカジュアル版だから、もはやそれは人格変容に近い。

自分が描いたサークルの中からストーンが出てしまったり、どこにあるのかロストしてしまったりすれば、それは端的な気ぶれとなるだろう。でも僕は別に前の座標に未練はないし、このまま行けるとこまで動かされてみようかと思っている。どこまで座標を捕捉し続けられるか見物だ。まとめ見で鑑賞が雑になっているかというとそんなことはまったくなく、むしろ回路が開きっぱなしなので鋭敏になりすぎているほうが少し怖い。自分が自分でなくなってしまうような原初的な恐怖について少し考える。散歩の途中、ふと口をついて「夕焼け、恋人、Tシャツ、色褪せ」と鼻歌が出て、わけもなく泣き崩れてしまう。ほらやっぱセンシティブになりすぎじゃーん(笑)。走り込みで膝を痛めることがあるように、著作物のまとめ摂取は心を痛めることがある。ずれない強い土台を持っているか、ずれたたびに座標を修正認識する能力のことを、精神力と言うのだと思った。しかしそんなもんないほうが面白いに決まってる。危なっかしいけどね。