「ねえ、俺まだ90年代だと思ってるクチなんだけど」
「何言ってんの、今年九十十二年じゃん。発音しづらいけど」

さて、きのう一気見したキンゲの話をしようっと。どうしよ、背景からかな。えーと、未来。増えすぎた人類はツンドラ地帯にドームを作って、そん中で暮らしてる。そんで温暖な地域は食糧生産や環境保全に充ててる。まずこの設定がすごいトミノでエクセレントだ。人間は邪魔ものだけど科学があるから、過ごしやすいエリアは動植物に明け渡して、ほかの生物が住めない地域に工夫を凝らして住めばいい、ってアイデア。これはガンダムでエレズムとして語られた思想のまったくの焼き直しだけど、ガの字みたいに宇宙へ出ちゃわないでツンドラを見つけたとこがご慧眼。だってほら、宇宙、空気ないし。ロケット高いし。そしてツンドラは人口を受け止められるくらい十分に広い。

このドームひとつひとつが都市国家の体をなしていて、ロンドンにあるIMAという強権的な国連みたいのがそれらを束ね、各ドームへの食糧供給はシベリア鉄道が担っている。こんな世界で人々はドーム国家に囲い込まれて暮らしてるんだけど、その圧政下から脱出して温暖な地域に移り住もう、ってな運動が起きるわけだ。これが人呼んでエクソダス。主人公のゲイナーはウルグルクに住むゲームチャンプの高校生。エクソダス主義者の嫌疑で投獄された留置場でゲインという男と出会い、ゲームの才を生かしてオーバーマンと呼ばれるロボットを操縦、ともに脱獄に成功する。このゲインという男の正体こそエクソダスを成功へと導くべく雇われた請負人であり、ゲイナーは有無を言えぬままエクソダスに巻き込まれていく。ってとこがあらすじ。

この世界での主動力は、電気モーターでもジェットエンジンでもレシプロエンジンでもなく、シルエットエンジンと呼ばれる人工筋肉だ(バイクまで!)。そのためロボットたちはウィーンガシャ、ウィーンガシャでもズシコーン、ズシコーンでもなく、キュッ、タッ、ズバーンッとアスリートのように振る舞うことを許されている。これにトミノならではの歌舞伎ライクなカット割りが加わり、言ってみれば逆シャアの戦闘シーンや弐号機の舟渡り並みの躍動感が全編に渡って横溢しっぱなし。しかもジブリから流出したスタッフのおかげか人物のモーションは異様なほど流麗で、しなやかさからたくましさまで澱みなく描写されまくっている。なにしろオープニングでいきなり、児童から娘たち、ロボットまでがそれぞれにモンキーダンスを繰り広げるのだ。キンゲを見る快楽の主軸は、このモンキーダンスに集約された筋肉の躍動にある。

オープニング映像についてもうひとつ言えば、フィクションの跳躍力についても見せつけられた。曲に合わせて主人公とマドンナ役がダンスを踊るのだが、4小節、ソシアルダンス風のエレガントな振りをこなしたのち、抱き上げ、放り投げられた彼女の足には。驚くなかれ、いきなりスケート靴が履かされているのだ。そして4小節、フィギュアスケートのペア演舞が展開する。このフィクションの跳躍に、なぜスケート、いつ履いた、なんて野暮を差し挟む者もいないだろうが(まあオープニングだし)、本編までもがこの調子なのだ。敵味方のエースパイロット同士が、なぜかグローブをはめてリングで殴り合う。隊長は鎖帷子で手裏剣を投げている。フェレットみたいのが人間二人を水から引き上げる。もしくはエクソダスの最中に、前触れなく体育祭が開催される。次回予告を見るたびに、その唐突さと状況主義に度肝を抜かれっぱなしだ。これじゃ現場は、楽しくて苦しくて(笑)仕方ないに違いない。この場当たり的な快楽主義は、過去のトミノには少なかった要素じゃないだろうか。

さて最後、俺がいちばん気にして見ていたことなのだけれど、主人公のゲイナーくんは基本的にアンチ・エクソダスという立場をとっており、これがこの物語を単なるエクソダス賛歌、脱出to新天地の神話とはひと味違ったものにさせている。その要因のひとつには、過去に両親がエクソダスの容疑によって死刑に処されており(それが冤罪だったかは不明)自分から親を奪ったエクソダス運動、という私怨があり、もうひとつには、今暮らしている枠組みの中で精一杯生き楽しむのではなく、新天地への逃亡という手段で自己実現を図ろうとする思想への軽蔑がある。なのに彼は、なりゆきもあるにせよ、次第にエクソダス側に巻き込まれ、その主力を担うまでに活躍していくのだ。いつでも逃げ出せる立場なのに。彼がなぜ、敵意を抱いていたサイドに組み込まれていくのか、その理由をトミノがどう回答するのかを知りたかった。なぜなら。

なぜなら俺自身が、まったくもってアンチ・エクソダス主義者だからやね(苦笑)。私怨という意味ではニューヨークに彼女を見送ったこともあるし(あかね元気かい?・笑)、それよりなにより、overとかouterを意味する接頭詞ex-に象徴される、外部志向、脱出思想のすべてが嫌いだからだ。ああそうさ。ヒッピーイズム。ビートニク。ゴア・トランス。山間レイヴ。チル・アウト。LSD。エキゾチシズム。出エジプト記。田舎暮らしの本。ワーホリ。脱サラ。自殺。ここではないどこかへ(笑)。ぜんぶ殺したいほど憎んでると言おう。言ってしまえ。そんで憎んでるってことはつまり、心のどっかしらで大なり小なり憧れ焦がれ、愛しているってわけなんだろう。そんくらい自分でもわかってるさ。そこいらへんの個人的な感情に、このゲイナーくんの物語は何らかの回答をくれると思ってたんだ。

キンゲには、この問いに有効なヒントをくれる登場人物がいる。アデット姐さんだ。彼女はエクソダス主義者を取り締まり、逃亡を阻止するシベリア鉄道警備隊員なのだが、スパイとしてエクソダスの列に潜入しているうちに転向し、ゲイナーたちの学校の教師に収まってしまう。そしてその理由が素晴らしい。転向の前々回で、彼女の上司であり恋人でもあったヤッサバという熱血漢が、戦いに敗れて逃亡している。寝返りを責める元の仲間たちに、彼女は言うのだ。ヤッサバのような男がいなくなったシベ鉄など何の魅力もない、と。その裏にはゲインという強い色男の存在もあるし、もっと単純に言うならば、こっちのほうが楽しいから、という快感原則がはっきり窺える。そんで実際、楽しそうに教師役を務めたりしてる。

ゲイナーくんは彼女ほどはっきりとエクソダスに参加する理由を明示しない。あるときはゲインに恩を返すため、とか強がって言うし、あるときは仲間として認められたから、サラが好きだから、という節も大いにある。でもなにより明らかなのは、ゲイナーくんがエクソダスの日々をすごくわくわく胸躍らせて、人と触れ合い、楽しんで、やらなきゃならないことがいっぱいあるからいっしょうけんめいがんばる、って感じに溌剌と過ごすようになったことで、結局のところ、アデット姐さんと大差なく、こっちのほうが楽しいから、という感情以上の理由は存在しない。話の筋書きがそうであるように、主人公の振るまいも実に状況主義的、かつ快楽主義的なのだ。

その意味で、この物語には許しが至るところに溢れている。エレガンに踊らせたいからスケート履かせちゃえ。こいつら殴り合わせたいからボクシングにしちゃえ。こっち側のほうが面白そうだから寝返っちゃえ。主義に反してるけど毎日が充実してるから続けちゃえ。というリクエストに、いいよそっちのほうが気持ちいいなら、というオーケーを出せるようになった野放図さこそ、今回トミノが得た新境地であり、キンゲでもっとも気に入った点だ。その結果として、これは俺が言うまでもないことだけど、見た誰もが絶賛する、のびやかで、抜けが良くて、うっとりさえするような気持ちいいアニメができあがった。この作品をタガが緩いとかモラルがないとか構築が甘いとか批判することは簡単だけれども、そう言わせないだけの圧倒的な魅力がキンゲにはある。魅力や快感といった状況は、主義や思想みたいな構造に勝る、勝ってもいい、勝っちゃえ。それがトミノの新作から俺が感じた結論だ。

散歩。明日の料理を予約したあと、タイユバン・カーヴに行こうと恵比寿に向かってる最中にもう閉店していることに気づき(行けばギリギリ間に合ったかもしれない)、ユトレヒトに寄る。江口くんも岡部さんもいて、ほんとはもう始まってなきゃならないサヴィニャック追悼展の準備。いちばんデカいポスター(190×160cmくらい?)が見た瞬間からめちゃくちゃ気に入ってしまい、かーなーり苦悶する。うわーどうしよー欲しい。高い。家賃並み。しかもデカい。持て余す。いや持て余さない。欲しい。欲しくない。高い。高いは高い(笑)。やめとけ。買っちゃえ。わー! その後2時くらいまで飲んで、山崎と焼き肉食って帰って寝た。夢にポスターが。わー。