綿布団みたいな雲が切れ目なく空を覆っているので、路面もそれほど熱されてはいまいと思い、ひさびさに昼間の散歩に出る(僕らは靴のおかげで気づかないけど、直射日光下のアスファルトはG4ノートより熱くなり、肉球を火傷してしまう)。出掛けにテレビでモスバーガーの新メニューのCMをやっていて食べたくなり、公園通りのモスまで歩き、NHKの坂を下っておくむらの前あたりでもうガマンできずに包みを開いていたら、向こうから鬼がやってきた。

黒いポロシャツのマネージャーとおぼしき男を従えて、鬼は凄い速度のがに股でこっちに歩いてくる。赤い開襟シャツにチノのショーツ、赤銅色に灼けた肌。赤鬼はテレビに映っているときはビートたけしといって、よくかぶりものを着けては道化を演じたりしているのだけれど、下を向きつつポケットに手を突っ込んでやってくるその姿は、あまりにケダモノじみた、説話集に出てくる情け容赦ない鬼の姿そのもので、こんなに禍々しくてはハゲヅラでも被せないとテレビに映せないしろものだなあ、と思った。

いや待て、たけしは小さいはずだ。僕はとっさにそんな豆知識を取り出して認識の修正を図ろうとした。したんだけど、えーと、誰だ小せえって言ったやつ、コロス。背は大きくない。確かに。でもめちゃくちゃデカイ。筋骨隆々で、特に上半身の首から二の腕、胸に至る筋張ったラインはSFXのモンスターのようだ。肌はラバー質で薄く、その下に獲物を仕留めるためだけに形作られた筋肉がひとつひとつの構造を露わにしながらそのときを待っている。不動さまもひるむであろう、獰猛な野武士の形相。僕は思わずフリーズして見つめてしまった。生きた心地がしない。

真夏の並木道が、そこだけ色のない暴力的な空気に侵されていて、それが移動していく。車道のワゴンが減速し、助手席の無軌道な(ほんとに無軌道だ・笑)若者が「コマネチ!」と叫ぶ。バカ止めろ! 僕は流れ弾に当たりたくない。よく作品には創った者の憧憬や欠損感が表出されがちだと思われているけど、たけしの場合それはお笑いで、目の前のたけしは彼の映画そのものだ。ノーモーションでごつんと殴り、無言で引き金を引き、表情ひとつ変えずにレイプする、クールで圧倒的な凶暴さが僕の肌に染みこんでくる。ひとことで言うなら、謝っても許してくれない感じ。

僕は浅草の演芸場の楽屋で、下町の路地裏で、フライデーの編集部で、彼がどんな顔でどんなふうにサバイブしてきたのか、一瞬で理解した。講談社は、2度とたけしのゴシップは書かないだろう。担当編集は、一生抜けないトラウマを負って、いまでもその所業を悔やんでいると思う。遠ざかる後ろ姿を見ながら、テレビの人や芸能の人はあんなのと仕事をしていて偉いなあ、と僕は思った。あとガダルカナル・タカや井出らっきょやグレート義太夫林家パー子も偉いなあ、と思った。

仕事柄、あとライフ柄、有名無名を問わず、僕はいわゆる凶暴な人、にもそれなりに会ったり見たりした経験があるし、彼らを前にしての振る舞い方も知っている。でも、安岡力也もどこぞの組の若頭も人殺しの中国人もボクサーも、あそこまで底知れない凶暴さは持ち合わせていなかった。そういや先日見た全英オープンの中継で、たけしの横でニコニコしていた青木功は、たけしの肩をグイッと抱き寄せて「ビートちゃ〜ん」なんてやっていた。青木も偉いなあ、と一瞬思ったが、たぶんそれは間違いで実際に会ったら青木もただただめちゃくちゃ怖いんだろうな。鬼ばっかですか、テレビの世界は。みのとかあり得ない野蛮な顔つきだし。

恐怖の記憶が首筋に張り付いていて、やり場のない不安に苛まれながら家まで歩いた。帰宅すると疲れていて、ベッドに倒れ込んで昼寝してしまったのだが、その夢にまでたけしは登場した。あまりに酷い内容だったので書けないし書きたくもないのだけれど、とにかくあんな人とは何かの機会があっても絶対仕事したりすまい、と固く決意した。小僧っ気を出したり欲をかいたりして鬼に関わったら、生きて帰って来れないことは間違いないだろう。そういう愚者の話は民話、説話にいくらでもある。鬼はお話の中に棲んでいるわけじゃなかった。いなくなったはずの鬼が、メディアのど真ん中に生きている。