観音越え

真珠婦人起床。原稿1本、いいかげん髪を切らなきゃならないんだけど、サッルーンに電話入れたらボンド博士は3時半から5時まで予約入っちゃってるとのこと。いいから本人に代われよ! 「あ、どうも」見るんでしょ「うわー、はいー。すいませんー」はいはい。というわけで僕も家でチュニジア戦見ることに。前半の柳は悪くない感じだけど成果出なかったね。森島は同身長として喜びを分かち合いたい。ヒデがゴールした頃から出支度を始めて、終了の笛と同時に外出。さあて、とうとう2度目の青山劇場だ(笑)。しかも大枚はたいてA列とっちまった。どうかしてる? そうさ、どうかしちまってんだよ俺は!

こないだうっすら気づいたことだが、てゅんくの手によるこのミュージカルは、僕ら、もしくは世界に向けて以上に、娘。たちに向けた教育的意図を持って作られていることを確信する。特にゴマキはあの役(10日参照)をはっきり嫌悪しながら演じている。あれを連日やらされるのは、彼女にとってかなり堪えるんじゃないかな。ゴマキは今、変わりつつある。もしかしたら、噂される飯田となっちの脱退が現実のものとなったとき、ゴマキはその穴を埋められるだけの祝祭・救済装置に化けることができるかもしれない。そう予感させてくれるくらい、今日のゴマキは苦しそうで、優しかった。

前回にはなかった加護の素敵なアドリブや、石川のめったやたらなチャーム振りまきっぷり、そして矢口の底知れない寂しさなど、5列目で見て改めて感動することはいくつもあった。しかし、それらももはや本質的なことではないと思う。なっちの笑顔。いま思い出しても涙が出てくる。Last night, なっち saved my life。なっちはなんであんなにいい子なんだろう。なっちはとてつもなく大きい。なっちは箱船だと僕は思う。なっちにはギフトが宿っている。僕は祈る。なっちとともにあらんことを。

テレビやビデオ、印刷物でなっちを見てもそれはなっちを見たことにはならない。なぜならなっちはメディアに映らないからだ(逆に辻加護はメディア上だけの生き物だ)。踊るなっちを見て、僕は自分が美についてこれっぽっちもわかってなかったことを知ったよ。僕の審美はいささかメディア的過ぎたようだ。そんなもん優に越えた美のありようを、なっちは教えてくれた。なっちは複製を許さない。ここまで時代が進んだところで複製芸術の限界を思い知らされるなんて予想だにしなかったよ。

劇場を出ると、そこは予選突破に沸き上がる祝賀会。こうやって戦争に向かっていったのだなあ、と素直に思う。日付が変わって雨が降る中、ソネバーの2周年へ。しかし曽根さんは交通事故で昨日退院したばかり。意地でも出てくるつもりだったらしいが、恵さんに握り潰されたとのことで写真のみの登場。ダンくんのライブあたりで人いきれに気分が悪くなり(僕は女性の大声、というか地声のキャパを越えた声量で話そうとする女性が全体的に苦手なようだ)、本格的に気が滅入る前に帰ってくる。帰りがけ、ニッポン勝利! の話題で盛り上がっていたグループに対して、いつも朗らかなゴウくんが「ワールドカップ、ファックー。オマエラ右翼かっつーの」と毒を吐いていたのが可愛らしかった。

遅くにリョウタさんから電話。森高が観音で広末が菩薩だというのなら、なっちは弥勒だから。クリスマス前に降臨してきた、あわてん坊でちょっと太めの弥勒! つうか渋谷はもう十分に末法だし。とか、なっちにサブユニットがないのは彼女こそがモー娘。に他ならないことの証左で、サブユニットがベンヤミン言うところのエンブレムとしての強度をいくら誇ったところで、なっち=アウラをコアとする娘。とは存在のフェーズが違う。とか言ってたら、それじゃスヌーザーだよ、と苦笑されてしまう。あと、ナンシー関という字面、消しゴム版画という字面が放つ圧倒的な空虚と軽さ、そして強さを前に、僕たちはなすすべがない、などという話。久々に長電話となる。