教会のガラス壁にオレンジの異様な灯りが映っている。どこの家がこんな照明を点けているのかと見上げるが、ベランダの底が規則正しく並ぶばかりでそれらしい部屋は見当たらない。オレンジのカーテンならまだしも、トンネルのナトリウム灯みたいな光線に囲まれて暮らすのはどんな人間だろう。男だろうか、女だろうか。それとも若い恋人たち。いずれにせよそこで交わされる言葉の響きは光線によって規定される。乾いているのに厚ぼったい、アクリルの会話。拾われることを期待されないプラスティッキィな台詞の断続。人は言葉から狂っていく、と言ったのは古井由吉だったか。

セロファン越しの生活。ずっと、陰鬱が足りなかった。陰鬱な部屋に帰りたい。そればかりを望んで暮らしていたことに突然気付く。くすんだ砂壁、湿ったファブリック、タングステン光の色温度。毛足の長い絨毯。相手がいようがいまいがお構いなしに放り出される短い言葉。テレビつまんない、消そうか。することないね。退屈。寝たら? 鬱陶しい夜が足りない。いや、それどころか生活から夜が消えた。電気仕掛けのロボットも投げやりな気持ちもない。暮らしの可愛がり方を間違えたんだと思う。西友が目を付けたマーサなんちゃらのリビングウェア、みたいなのに囲まれて正気でいられるわけがない。失敗した。

僕が好きなもの。薄着で裸足でみすぼらしい昼間。陰鬱でよすがない夜の空気。ヒントのない暮らし。公団住宅の寂しい佇まい。ああ。最高だ。代々木公園の池のふちに腰掛けてひとり濁った水を見ているときのやるせなさ。取り残された感じ。シフトレバーが根元まで剥き出しのポンコツ車。倉庫地帯。灼けたハトロン紙、人気のない歩道橋、いつ買ったのか思い出せない外国のお菓子。ブロック塀。僕は心細い感じがないとまったくダメだ。心細さでしか現実感を得ることができない。心細くなってはじめて、感情が降りてくる。

商店街を抜けて開けた西の空に、琥珀色した月が沈もうとしていた。なーんだ。