調子よく無責任に引き受けてしまった仕事のため往生している。欲しいイメージに合致した図版が見つからないのだ。危機感からあたりにわめき散らしたところ、心ある識者諸氏のご協力のおかげで事なきを得そうな感じにはなってきたが、ことビジュアル方面での無力さ、そして参入障壁の高さを痛感させられた。簡単に言えばビジュアルにgoogleはない、ということだ。

image googleがあるだろう、というのはもっともな意見だが、あれはイメージが言語化されて(作家名とか作品名とか運動名とか描かれてる物とか)はじめて使い物になる性質のもので、ただ欲しいイメージしか持ち合わせていない状態ではまったく歯が立たない。言葉の世界なら知ったかぶりで調子合わせておいて、帰宅後に鬼googleの付け焼き刃、が通用するのだけれど。いつかビジュアルが経験から(表面的にせよ)自由になる日が来るのだろうか。人の話では画像の中の肌色率を測定してエロ画像をはじくプログラムがあるそうだが、黒人ならどうするのか、とか思いつつ、そう見当違いでもないような気がする。まあコンピューターによるイメージ認識の精度アップについては世界中で優秀な人たちが取り組んでいそうだから近いうちにはなんとかなるのかもしれない(てきとう)。

それにしてもここ数日のイメージ探索で、いったい僕はどれだけの図像を見たのだろうか。1000や2000じゃないことは間違いない。ひとつひとつをちゃんと見ている時間はないから、おのずとパターン認識の回路が前面に押し出されてくる。欲しいイメージに合致しているかどうかだけが問題となり、見落とすものが多くなってくる。何かに似ているな、と思ったらヤフオクだった。僕は実際に買う量の少なさと較べたら呆れるくらいたくさんのオークションを毎日見ている。まあヤフオクに関しては完全にそれだけで生きていらっしゃる本格的な住民がいらっしゃる手前、エキスパートを名乗ることは許されないだろうけど。

いずれにせよ、目的に合致したものを素早く拾い上げるためには、認識回路を研ぎ澄ませるにつれ、何かを見ないようにしなければいけない。こういうのなんて言うんだっけ、捨象? 違うな逆か。まあいいや、そんで、逆に出品者サイドは、素早く閲覧されてもちゃんとうまくフックが効くように、その見ないようにした方が処理が速くなる要素、を極力減らし、それが目的であるかないかを見分けられる要素をよりわかりやすく提示することがテクニックとして流通しているわけだ(こっちが捨象)。そして、最近の僕の興味は断然、この、見ないようにしたほうが処理が速くなる要素、のほうにある。パッと見のわかりやすさを握りしめる雑な感覚器官の指の間からこぼれていく何か、それをもう一度つまみ上げ、指先で練ったりしてみることの楽しさ。

だから図版を早足でめくっているときはくやしくてくやしくて仕方がなかった。めくってる目的は一目でわかる何かを探すことだしそれが大事なことだけど、一目でわかる何かはもう個人的に魅力を感じる対象ではなくなっていて、せめて5分くらいほけーっと眺めてる間にわかるかもしれない何かを見たい、なのにそれを見るチャンスを4000回くらい捨てている、ということに忸怩たる思いを抱いた。ことを一般化させると、一目見て気に入る図像とか一聴して惚れ込む音楽、一読して呑み込める文章はそれぞれスキルフルだしパワフルだけど、あんま僕の中で盛り上がれないのが今の気分だ。この心理の分析はしないけど、それが小沢健二の新譜に対する僕の基本的な態度だってことは書いておこうと思う。ああ、なんか普通のことを言うのは気分がいいなあ。