トキオの松岡が持つ陰鬱な雰囲気がすばらしい。とにかくどんなバラエティでも松岡がしゃべったとたん、なにか日本海的な、バカを承知で言うとデ・キリコ的な曇り空に画面全体が覆われる。アジアン元気食堂のあの食卓を包む、冗談みたいに深刻な空気は何だ。僕がまっさきに連想したのは水銀だ。水銀のしずくは、ほんとはキラッキラしててツルツルでプルップル(やかましい)な元気のいいピュアマテリアルのはずなのに、実際に目の前にしてみると、とてつもなく沈んだ、憂いを帯びた印象の光沢を放つ。

あの、スーパーリアリズムつったっけ? 80年代ぐらいの超精細な写実主義の絵が、いくらサンシャイン満載の西海岸ビーチを描こうと間宮海峡の陰惨な浜辺にしか見えないのも同様だ。ホラー漫画では点描の技法が同じような効果を狙って使われている(相原コージがよくパロディにしていたように思う)。トキオの松岡とそれらを繋ぐ線は、、、えーと、なんだろうね。何の検証もなしに私見を述べると、僕はそこに具現化と純粋さをめぐる悲しみがあるからなんじゃないかな、と思う。ああん、言葉足りなーい。

どんな美しいアイデアだって、実際にそれを現実のものにしようとしたときには、どれほど小さく抑えようと必ず軋みが生じて「厳密にアイデアそのものだったもの」ではなくなってしまう。どんな超絶技巧の筆さばきでも風景そのものを写し取ることはできないし、どんな純粋な金属でも、それが眼に触れる場所に出た途端、酸化かなんかしらないけれど、変性が始まって完全な純度なんて保てやしない。文章だって音楽だって同じ。頭んなかでひらめいたことをそのまま言葉になんてできやしないよね。当然のこと。

たいていの場合、それは目に付かないほどの小ささに抑えられて気にならないか、不純を前提としてそこに息づいている理想の面影に心を馳せてもらうか、変性そのものを楽しむ方向に向かうか、いずれかの手法で障害がうまく回避されている。なのに、モノによってはその変性が悲しみと直結してしまうケースがある。それは本来持っていた理念が極めて整っていて美しい場合に起きがちだと思う。確かに松岡の顔は配列まで含め、異様なほど理想的な要素によって構成されているし、あまりにもギリシャ的な美を体現してる。それだけに、この世に完全などないことを僕らに知らしめるのだ。完璧主義者の悲哀を背負った松岡の顔は、それはそれでまた美しいと僕は思った。