深夜、イエローへ、テイトーワの新しいパーティに。止まぬ雨の中、イエローは出が多いのに入りも多い、ひさしぶりの人混み。サエキさんこんにちは。上はラパレイユ梶野氏のラウンジ、下はなんとかキューブ、フランス人。フレンチハウスがテーマと聞きやってきたわけだが、ラウンジの(ほんとの)フレンチハウスはさておき、フロアのサウンドは接頭詞なしのハウスミュージックで、ひさしぶりの拾いものと思えた。

スピンのスタイルは本来的な意味でのストロングなガラージなのだが、そこはフランス人、音使いやリズムの構築がビザールで、新しい音楽を聴いたような気にさせる。発見はふたつあって、ひとつはダビーな音響への教養がハウスに与える効果、もうひとつはシカゴのプリミティブさがもたらすみずみずしさだ。僕は年々シカゴにやられていく。人類の心の動きにはらせん、もしくは円環的な運動をたどるものと不可逆なものの両方があることを知っているけど、シカゴは間違いなく不可逆的な発見のひとつだ(余談だが、スピードがやったイエー!って手のカッコ、あれも不可逆的な発見のひとつだ・笑)。2002年にフレンチハウス・ディスコティークの皮を纏ってシカゴの息吹がフロアに流れる、その状況に言われようのない感謝を覚えた。

DJが変わりbpmが上がった頃、タクって加藤くんとMWTに。テキーラ2杯とシャンパンと活力を十分に貯めこんで早朝の渋谷へと歩く。この場合の活力というのは、つまりは状況を甘受するブルースのことで、詳しく説明すると長くなるので割愛するが、要するにMWTにはガタイが良くて陽気な客しか来ない。僕以外(笑)。

表は突風、そして風に飛ばされてきたまばらで大粒な雨。大気中のチリがすっかり飛ばされて遠くまでよく見えるよ。東邦生命の前から見る、高速道路に沿って続く道沿いのマンション、表はタイルだけど裏は風化したペンキ塗りのコンクリで、しかもそれを堂々とさらけ出している巨大な雑居ビル。落下防止の窓格子、曇りガラスの内側にかかる紫色のカーテン。喩えようもなく美しくて、うらさびしい。これをフィルムに収めた映画はまだ現れていないと思う。西の空に雲の穴があり、その小さな青空から風は吹き抜ける。駅前で町そばをすする。

歩みが止まらなくなって、109を通り越して東急本店、坂を上って松濤公園まで、レンガ敷きを踏みしめ進む。桜は風に舞い半分も残っていない。遊歩道を下り降り、公園の池の脇に立つと、そこにあったのは恐るべき景色だった。桜、桜、欅の新芽、幼い松ぼっくり。ガチョウが小島に休み、肥えた鯉がライズする。春の草木が黄に桃に色を散らし、とびとびに水が溜まる地面を桜の花びらがよごす。視界にあるあらゆる細部が同時に網膜に飛び込み、視点がまったく定まらない。

こういうときカメラでも持っていれば暴力的にフォーカスを保持できるのだろうが、あいにく肉眼ではすべてをすべてのまま同時に見ることしか許されず、言語的、記号的にまかなえる認識ではいくら追おうが追いつかない。これが日本か、とやや笑う。すべり台といくつかの遊具が、大きな水たまりに足下を飲まれ、プラスティックの色彩だけが水面に浮かぶ。池の風下には散った花びらが吹き寄せられ、その中心には黄金色の鯉の死骸が横原をあらわにとどまっている。何という現実、何という風景。これを自然、とか天然、などと言えようか。あらゆる作為のあとにどうしようもなく咲き誇る無数の細部を前に、僕らはただ立ちつくすしかなかった。

山手通りをまたぐ歩道橋から、北の空を仰ぐ。僕は北の空が大好きだ。決して太陽が通ることなく、それだけにもっとも深く、もっとも青い空。道を挟んで、地下に高速を通すため拡張される予定の空き地が帯となり、その外にマンションが連なる。ビルディングの張り出したベランダの整然とした配列、それは僕にとっての都会の原風景だ。名前を忘れてしまったけど西海岸の割と新しい画家に、まったくそれそのもの、つまり反復するマンションのベランダをグリッドではなくパースペクティブに描いた作品があって強烈に記憶していたのだが、帰宅してすぐ、見かけた雑誌を探し出そうとしたがダメだった。(僕は偶然買った雑誌に載っていたその大きくもない写真を繰り返し飽くことなく見ていたものだ)。

自宅のマンションのドアを開けたとき強く思った、というか再確認したのだけれど、僕らの住むこの世界はもうのっぴきならないおかしなところ、簡単に言えば狂っちゃった領域に十分すぎるほど突入してしまっていて、もう引っ返しなんてつきゃしないんだ。その呪詛を十分に認識して、味わって、甘受して、それで僕たちはなんかゴソゴソなんか紡いだりして生きていくしかないんじゃないかな。もう、正しくなんてあろうとしても許してくれないと思うし、タスマニアに引っ込んだりペンキ塗って暮らそうとしても無駄骨にしかならない。おかしくなっちゃったこの世界で、小さな諦めを抱えながら行けるとこまで行き、何かちょっと見たりできれば僕はそれでいい。それがいい。