今年も一年お世話になりました。仕事に関しては拡大と失敗の年でした。とても多くの方に数え切れないほどの迷惑を掛け、いつ干されてもおかしくない状態になりました。実際干されましたし。それでも仕事を下さったみなさまには、心から土下座とキスをしたい気分です。今後とも僕にできることがある間は使ってください。みなさんのおかげで僕はご飯が食べられています。できれば今後もご飯を食べたいです。僕のようなボンクラでもご飯にありつけていることを思うと、感謝の気持ちで泣きたくなります。僕を使ってくれてほんとうにありがとうございました。

あんまり仕事の話をしたことがなかったけど、少し。僕の仕事は、適当なことを言って必要ないものを必要かも、と思わせることです。もうひとつ、適当なことを言って必要ない企画を必要かも、と思わせることです。要するに世の中の不要な部分を増やすことでお金をもらっています。不要な部分が大半を占める世の中なので、別に珍しいことではないのかもしれません。

仕事の内容は多岐に渡ります。職域的には文章を書くのがメインということにしていますが、書いている時間は労働時間の1割にも足りません。媒体は雑誌から広告、ネット、CD-ROM、展覧会、エトセトラ、エトセトラ。

やりたいことを仕事に、みたいな言説が世の中を被っていますが、僕はそうではありません。やりたいことがよくわからないままこの歳にまでなってしまったボンクラだからです。よくわからないことにしとこう、という意識があることに関しては否定しません。さておき、僕にとっては頼まれたことをやるのが仕事で、それをこなすことでページが埋まり、お金が入ってくることが動機です。自己表現という視座がはじめから欠落しているので、頼まれればどんなことでもやります。

たぶん頼まれる、とか必要とされる、ということが現在の僕のもっともしたい(されたい)ことなんだと思います。自分が生きていてもいいんだ、という確認がほしいだけなのかもしれません。こんなことを書くと仕事の人は、そんな気持ちで仕事に向かってるから遅れまくるんだそれでもプロかボケ、とおっしゃると思います。でも僕はアナタに(たとえ嘘でも)必要だと言われたいがために仕事をしています。いつも困らせちゃってごめんなさい。裏切るようなことをしてごめんなさい。

あるデザイナーの人をインタビューしたんだけど、その人は表現に携わる人でした。だから仕事に必然性を感じていました。「君がやってくれたおかげで終わったよお疲れさん、今度もまたよろしく」なんてクソだって言っていました。「どうにもならないまともじゃない狂った部分を世に問うこと」が仕事だって言っていました。たとえ誰かや世の中に必要とされてなくたって、出すべきものを出すのがほんとの仕事だ、と。僕はそんなことをしたことは一度もありません。僕はその場ではクソってことになって、狂った部分を世に問うていない人でした。そんな部分があるのかどうかもわかりませんし、わからないというのは無いに等しいことです。

僕は自分がその仕事をこなすのに最も適した人間だと思って受けたことは一度もありません。何年経っても自分の商品価値には自信が持てないままです。自分が編集者だったら自分に頼むか、と考えると、いつも暗澹たる気持ちになります。だから自分に仕事が来ると、うわほんとすんませんほんとありがとうございますすいません、と思います。僕は面白いことを言って誰かを笑わせることもできないし、誰にも負けないような知識を持った分野もありません。ただ、そんな人しか仕事が来ないんじゃ世の中の大半は仕事にあぶれてしまうので、世の中はボンクラにも仕事を与えてくれるくらいには寛容なのかもしれません。

ひとつ救われてるなあと思うのは、仕事に向かっている間は苦になることが一切ないことです。頭の中がなにかでいっぱいになっていて、それに打ち込むことが許された状態、というのはとても気持ちがいいものです。もちろん実際にはそんなうまいこといくことは少なく、並列的なタスクの処理に悩まされます。これは僕にとって非常に苦しい作業で、これに向かいたくないがため、もろもろの逃避に時間を割いてしまうことが作業を遅らせる最大の要因になっていました。

従って、来年からは仕事のやりかたを変えようと思います。仕事のスピードはたぶんこれ以上アップすることはないと思うので(目の前で見たことある人は必ず憤慨するのですが、書くのは速いほうです)、仕事の順番を並列から直列に変えることにします。タスクの最小単位を半日とし、1日最大2タスク、ひとつが終わるまで次には取りかからないことにします。もちろん僕にはそんな管理できませんので、有能な人に組んでもらうことにしました。

目論見どおりいけば、これで逃避の時間を減らすことができ、仕事のアップは早まり、ストレスは減少し、逃避に充てていた時間を別のことに回すことができる(9月から12月の前半まで、タスクを消化できたことは1度もありませんでした。溜まったタスクに追われながら食事するのはもう止めたい。メシに申し訳ない。)はずです。そんなうまくいくかわかんないけど。

僕が能動的な動機をともなった仕事に就けるのかどうかはまったくわかりません。1月のパーティは間違いなく能動的ですが(なんせ現状フル自己資本だし)、アガリが出ないことが判明しているので仕事ではありません。正月に少し休む時間を取れます。そのとき、自分の中に能動的な動機があるのかどうか、その箱を開けてみようと思います。それが今の仕事と違ったときどうなるのかはわかりません。自分をワナビーのエンジンに投げ込む勇気があるのかもわかりません。でも、今年の正月は、それを見つめるところから始めたいと思います。そうじゃないと遅かれ早かれ干される気がするし(笑)。

なんでこんなことを思ったかというとね、今回のパーティの準備で僕が何かやってるとき、一度も逃避なんてしなかったのはもちろん、すべてがうまくいったんだ。障害なんて感じたこともなかった。もしこれが能動的な動機がもたらしてくれるサムシングだとしたら、僕はその中にいたいと思う。僕は毎朝、釣りに行く朝のように目覚めたい。

プライベートで付き合いのあった方へ。みんな大好きです。ありがとうございました。来年もよろしく。