熱が下がらずぜんぜん身体が動かないのだが、無理をして「かぐや姫の物語」を見に行った。劇場が明るくなっても立ち上がれないくらい衝撃を受けた。とてつもなく素晴らしかった。何なら過去観た邦画でナンバーワンと言ってもいい。絵が、動きが素晴らしい、演出がアホみたいに素晴らしい、音響も。ニカさんの主題歌も。しかしこのあたりについては皆が語ってくれているので、僕が言わなくてもいいかもしれない。

僕がとにかく驚いたのは「かぐや姫とはどんな物語か」ということが、あまりにあっけらかんと、一切の隠し立てなく、出し惜しみなく、もったいぶらずにくもりないロジックで描かれていたことだ。こんな竹取物語はついぞ見たことがないし、こんなにまで克明に竹取を語れた文学者を寡聞にして僕は知らない。率直に言って、国文学者たちは何百年もの間、ちょっと怠けてきたのではなかろうか。それほどの仕事を、高畑勲はやってのけたと思う。

この見地には、「夢と狂気の王国」の予告編が補助線となった。そこでプロデューサーの西村義明は、要約すると以下のように語っている。曰く、なんでいまさらかぐや姫なんて映画化するのかと高畑さんに尋ねた。そしたら彼はムッとして「じゃあ君は、なんでかぐや姫が地球にやってきて、なぜ帰っていったのか答えられるんですか」「かぐや姫はどんな気持ちで地球で過ごしたか知ってるんですか」「竹取物語にはかぐや姫は罪を負っているとある。その罪とは何ですか。またどんな罰を受けたのか答えられますか」と訊いてきて、ひとつも答えられずにいる私に、彼はすべてを説明してくれた。その瞬間、私はこの映画を作らなければならないと確信した、と。

ほんとにもうこの言葉のとおりなのだが、誰もが、精度の差こそあれぼんやり知っている竹取物語を、なぜだなぜだなぜだなぜだと、これでもかと考え尽くした末の、その考え抜いた成果がこの映画なのだ。「なぜかぐや姫は地上に来たのか」「かぐや姫の罪とは何なのか」「なぜかぐや姫は5つの難題を出したのか」「何を考えてかぐや姫は地上で過ごしていたのか」「かぐや姫の受けた罰とは何なのか」「なぜかぐや姫は月に帰らなければならなかったのか」「かぐや姫はどんな気持ちで月に帰っていったのか」

さらには「竹取物語というストーリーは何を伝えんとして書かれたのか」まで、その答えが現国のテストみたいに身も蓋もないかたちで、この映画にははっきりと提示されている。それがあまりにシンプルであっけらかんと明確に描かれているので、観た大半の人は、はなっからそういうもんなんだと、当然のことのように受け取ってしまうように思う。でもそれは、高畑勲が(たぶん独りで、資料に当たりながら、何十年もかけて)絶え間なく考え抜いて導き出した、ものすごい熟慮の果ての結晶みたいなものなのだ。

まだご覧になっていない方も多いと思うので、ひとつひとつの「なぜ」の答えはここには書きません。ただ最後の「竹取物語は何を伝えるべく書かれたのか」という答えだけ、書いておきます。それは「この世は素晴らしい」ということ、圧倒的な現世肯定でした。ラスト、すべての「なぜ」が「この世は素晴らしい」に収斂されていきます。そこで気付くのです、そうだった、これ高畑勲の映画だったと。高畑さんの映画はもう一貫して、「火垂るの墓」も「じゃりん子チエ」も「おもひでぽろぽろ」も「雨降りサーカス」も、それしか言ってないんだった。腰が抜けました。

追記:もうひとつだけ書かせて。ストーリーの鍵として、高畑勲が作詞作曲を手がけたわらべ歌が使われるのですが、これがすごいです。アラブにはアラブの、沖縄には沖縄のスケールがあるように、月には月世界のスケールがある。というアイデアが提示されるのですが、それが土着的なヨナ抜き音階と、ひとつの変調をピボットにスケールチェンジして地続きに歌われるのです。高畑さんがどれほどの楽理的教養をお持ちなのか存じ上げませんが、ストーリー上の意味と音韻がロジカルに完全合一した、ものすごい作曲能力でぶちのめされました。

追記2:もう宮さんの気持ちを勝手に想像したら、ぐっちゃぐちゃでたまらんなー。「ほーれどうだ見てみろ、俺の愛した高畑勲は、やっぱりドえらい凄かったろう!」という誇らしさと、「最後までパクさんを抜けなかった。俺がどれだけ売り上げても足元にも及ばなかった」という悔いと憎しみ。この感情を燃料にしてもう1本作れちゃうんじゃないの? それじゃ永久に終わらないかw。

追記3:女童ちゃんに人類の良心が凝縮されていた。彼女が最後気絶しなかったことは示唆的だと思う。逆にパクさんの意地悪さが詰め込まれていたのが石作皇子の口説き

追記4:つうか風立ちぬの初夜がどうとかざわついてた輩は、あの長尺のセックスシーンになんで飛びつかないの?