体調は悪いのだけれど、悪い悪いと言っているとなおさら悪くなるので無理矢理起きて、完全にトチ狂ったことをしようと思って、半裸にホース&デッキブラシでベランダの床掃除をする。水ブシュー。ホースびたんびたーん。ブラシしゅこしゅこっ。バケツざばーん。うちのベランダは30平米ちかくあるのでちょっと腰にくる仕事だが、ひさしぶりでダイレクトに見上げる太陽と肌に痛いほどの陽射し、跳ね返る水しぶきにハイになってしまい、徹底的に仕上げてやる。途中、道向こうを見渡すとカルト教会にクソ信者がガキ連れて談笑してやがったので、ありったけの大声で「布教より家の掃除しろバカー」と叫んでみた。もちろん狂人扱いだが、まあ知ったこっちゃない。気分がいいので短パンごとバケツの水をかぶってブハアって頭を振る。

家にずっといるのでビデオは寿調に進んでいる。死刑台のエレベータ、赤い薔薇ソースの伝説、草の上の昼食去年マリエンバートでアメリカの夜。今日はキュアを見た。これはパリの遠い友人、カルパンティエくんからの推薦だ。以下抄訳。「現代日本に生きていながらクロサワを1本も見ていないなんてグエン、君はけしからんよ! しかし早合点してはいけない。いまやクロサワと言えば、アキラではなくキヨシなのがヨーロッパでの常識だ(何千回となく使い古されたフレーズだ・笑・唐木)。まずは四の五の言わずに、クロサワの最重要作、キュアを見たまえ。もし君が僕に、何らかの映画愛じみたものを告白しようというなら、まずはそれを済ませてからにしてほしいものだね」。

ああそうですか、けっパリジャンめ気取りやがって。でも面白かったよ。すべてのシーンを厳密に言語で記述して、記述し尽くして、それでも感動的に面白い、というのは凄いことだ。見てない人のためにもう少し言葉を足そうかな。この映画では、起きることのすべてが完全に言語ベースで説明しつくされていて、それぞれ明確に意味を伴って構成されている。観客には私はこう思う、僕はこうだと思う、なんて論争する余地は一切ない。この作品に解釈すべき箇所などないし、想像力を働かせるべき謎もない。我々はただ読むだけだし、もし何か判らないことがあるならそれは読み落としているだけだからそういうあなたは注意力散漫ということに、断じてなる。そして、ここが大事なのだが、そうやってすべてが記述されたあとの世界に残されたこのフィルムは、それでもやっぱり感動的に面白い。

たいていの怖さを供する映画は、その怖さを音響や映像といった感じるもの、によって創出、ないしは補強されているため、再生される環境を選ぶ。たとえば映画館で見れば怖かったのに、とか、こんなちっぽけなテレビでボリューム絞ったんじゃちっとも怖くない、とか。だがこの映画はプラズマで見てもノートパソコンのディスプレイで見ても、その衝撃が一切劣化しない。繰り返しになるが、すべてが言語によって記述されている、すなわち本来の意味においてデジタル的な映画だからである。劇中で、うじきつよし演じる精神科医が「なぜ犯罪をするのかなんて、最終的には誰にもわからんのだよ」とうそぶくのに対して、役所広司演じる刑事は答える。「だよな。しかし、それでも言葉を探す、のが俺の仕事だ」。これはほぼすなわち、黒沢清の映画作りに通じるようだ。何が感動させるのかなんて、究極的にはわからんのだよ。しかしそれでも黒沢は言葉を探し、紡いできた。この映画にはその血の滲むような作家の作業が存分に提示されていた。

晩、ふじもとさんが遊びに来て、というか俺の調子が悪いというのを気にして様子を見に来てくれて、いっしょに食事に出る。ベスパとモトラを交換して向かった先は、またも魚力。カレイの煮付けと刺身盛り合わせ。帰ってきてしばらく与太話。打ち合わせはひとつキャンセルさせてもらった。今週けっきょく、まったく仕事しなかったな大丈夫かオイ。