古いトピックで悪いんだけど、ゴマキソロの「♪孤独なんてみな同じと教えてくれた人」について少し。引っかかったのは「みな」がどこにかかるのかってことで、孤独にかかれば「どれも同じ」って意味だから「対象や状況に関わらず、孤独は等しく孤独でしかない」って話になるし、孤独を感じる主体(この場合は私)にかかるのなら「皆んな同じ」、つまり「私のもあなたのも誰のでも、本質的に孤独に個体間の差異はない」ってことになる。

たぶんこれはどちらも正しい。前に、なんだったっけな、松風かな、見たときに似たようなこと思ったんだけど。能ってシチュエーションとか割とどうでもいい気がするんだ。どうせ何言ってんのかたいしてわかりゃしないし舞台装置ねえし。それでも恋人が都に帰っちゃってさびしいわーって舞を舞うところなんかかなりぐっとくるところがあって、もうその舞の場面では、ストーリーに付帯した情報とか関係なくさびしいって気持ちだけが提示されるのね。それは言うなれば原初的な、カッコ付きの「さびしい」とでもいうか、状況とかエピソードとかもしくは個体差とかすっ飛ばしたところでただそこにあるさびしさで、それは筋追えてなくてもたいていの人の心には響くみたい。

こういった感情の原型みたいなものをダイレクトに提示するやりかたにおいて、能って抜群に優れてる気がした。そういや能面ってそんな種類あるわけじゃないけど、それで十分だってこともわかる。誰々の悲しい顔ってんじゃなくて、えーと、そういうのなんて言うんだっけ? イデア? まあ表情のそれなんだって思った。それを現出させるのには、ああいうソリッドな表現は適してるんだな、と。まったく逆に、徹底的にエピソードの枝葉をめぐらせて、そのモザイクの中から色覚検査の数字みたいに浮き上がらせるアプローチもあり得て、どっちがいいってのは不毛な話だけど、まあ切り詰めサイドの表現では能はかなりなところにあるのは間違いない。

話戻して自分のこと言えば、頭痛がひどいときの不安な感じと手術前にベッドに寝かされてるときの不安な感じとの間にはほとんど違いがないと思えるし、それは食いぶちに関して漠然と考えているときの不安についてもどうやら同じだ。で、たぶん誰でもそんな不安を感じたり感じなかったりしてるんだろう。あらゆる感情は凡庸なものだ、とまでは言わないけど、結局のところ、そこへ至る経路はシチュエーションによって、またその主体によって幾多もあるけど、結果導かれるカッコ付きの「不安」っていう気持ちは、本質的にはどれも誰もいっしょなのかね、と思えてくる。つまり、感情は普遍的なものだと。うーん、でも。

それぞれの感情にともなう状況をタマネギの皮みたいに一枚一枚剥いていけば、そこにはソリッドな感情の原初形態が現れる、っていうのは感覚的になんとなくわからないでもない。それに対して、個体間でも感情(の原型)は普遍だ、というのは、いくら実体験を伴ったところでかなり不自然な話だ。だって当然のように個体間には非連続性って鉄則があって、僕が死んでもあなたは死なない。僕が当然イエス! って思ったことでも、あなたはノーって言うかもしれない。なのに、なぜだろう。僕はこのこと、共感とかの仕組みを考えるのにヒントとなるのは感情の在り処の問題だと思った。

好調なときにはあまりないけど、僕が神経症的な状況下に陥ると感じるのは、思考や感覚は内発的で、感情は外在的なものなんじゃないかってことだ。言い換えると、思うとか思い出すとか考えるとか感じるとかはひとりひとりの体の中で起こるできごとだけれど、感情の働きは、感覚器官がどっか体の外にあるものに触れて起こってしまうような。たとえば月の裏とか、アストラル界とか、デンパとか(笑)。なんでもいいけどそういうとこに感情の総体みたいのがあって、なんかの拍子にアンテナがそこにタッチしてしまって感情が表出する。タッチしてる先が一緒だから共感がありえるんだ、と。まんま電波系な発想。トンデモですな。

逆に、調子がいいときには、感情だって他ならぬいまここに肉体を持った僕の中から出てきたものだって思える。というかそれを認めていこうって気になる。なんかここらへんにキチガイのメカニズムがあるように思う。僕は神経症について甚だしく不勉強で無知蒙昧もいいとこだけど、80年代に「いまここにいるのはほんとうのあなたではないんですよ」って言葉を投げかけた人がいて、その人がすごく多くのキチガイを作ってしまったこととかを思い出す。この話まとまらないけどここまで。

古いトピックで悪いんだけど、ゴマキソロの「♪孤独なんてみな同じと教えてくれた人」というフレーズについて少し。引っかかったのは「みな」がどこにかかるのかってことで、孤独にかかれば「どれも同じ」って意味だから「対象や状況に関わらず、孤独は等しく孤独でしかない」って話になるし、孤独を感じる主体(この場合は私)にかかるのなら「皆んな同じ」、つまり「私のもあなたのも誰のでも、本質的に孤独に個体間の差異はない」ってことになる。

たぶんこれはどちらも正しい。前に、なんだったっけな、松風かな、見たときに似たようなこと思ったんだけど。能ってシチュエーションとか割とどうでもいい気がするんだ。どうせ何言ってんのかたいしてわかりゃしないし舞台装置ねえし。それでも恋人が都に帰っちゃってさびしいわーって舞を舞うところなんかかなりぐっとくるところがあって、もうその舞の場面では、ストーリーに付帯した情報とか関係なくさびしいって気持ちだけが提示されるのね。それは言うなれば原初的な、カッコ付きの「さびしい」とでもいうか、状況とかエピソードとかもしくは個体差とかすっ飛ばしたところでただそこにあるさびしさで、それは筋追えてなくてもたいていの人の心には響くみたい。

こういった感情の原型みたいなものをダイレクトに提示するやりかたにおいて、能って抜群に優れてる気がした。そういや能面ってそんな種類あるわけじゃないけど、それで十分だってこともわかる。誰々の悲しい顔ってんじゃなくて、えーと、そういうのなんて言うんだっけ? イデア? まあ表情のそれなんだって思った。それを現出させるのには、ああいうソリッドな表現は適してるんだな、と。まったく逆に、徹底的にエピソードの枝葉をめぐらせて、そのモザイクの中から色覚検査の数字みたいに浮き上がらせるアプローチもあり得て、どっちがいいってのは不毛な話だけど、まあ切り詰めサイドの表現では能はかなりなところにあるのは間違いない。

話戻して自分のこと言えば、頭痛がひどいときの不安な感じと手術前にベッドに寝かされてるときの不安な感じとの間にはほとんど違いがないと思えるし、それは食いぶちに関して漠然と考えているときの不安についてもどうやら同じだ。で、たぶん誰でもそんな不安を感じたり感じなかったりしてるんだろう。あらゆる感情は凡庸なものだ、とまでは言わないけど、結局のところ、そこへ至る経路はシチュエーションによって、またその主体によって幾多もあるけど、結果導かれるカッコ付きの「不安」っていう気持ちは、本質的にはどれも誰もいっしょなのかね、と思えてくる。つまり、感情は普遍的なものだと。うーん、でも。

それぞれの感情にともなう状況をタマネギの皮みたいに一枚一枚剥いていけば、そこにはソリッドな感情の原初形態が現れる、っていうのは感覚的になんとなくわからないでもない。それに対して、個体間でも感情(の原型)は普遍だ、というのは、いくら実体験を伴ったところでかなり不自然な話だ。だって当然のように個体間には非連続性って鉄則があって、僕が死んでもあなたは死なない。僕が当然イエス! って思ったことでも、あなたはノーって言うかもしれない。なのに、なぜだろう。僕はこのこと、共感とかの仕組みを考えるのにヒントとなるのは感情の在り処の問題だと思った。

好調なときにはあまりないけど、僕が神経症的な状況下に陥ると感じるのは、思考や感覚は内発的で、感情は外在的なものなんじゃないかってことだ。言い換えると、思うとか思い出すとか考えるとか感じるとかはひとりひとりの体の中で起こるできごとだけれど、感情の働きは、感覚器官がどっか体の外にあるものに触れて起こってしまうような。たとえば月の裏とか、アストラル界とか、デンパとか(笑)。なんでもいいけどそういうとこに感情の総体みたいのがあって、なんかの拍子にアンテナがそこにタッチしてしまって感情が表出する。タッチしてる先が一緒だから共感がありえるんだ、と。まんま電波系な発想。トンデモですな。

逆に、調子がいいときには、感情だって他ならぬいまここに肉体を持った僕の中から出てきたものだって思える。というかそれを認めていこうって気になる。なんかここらへんにキチガイのメカニズムがあるように思う。僕は神経症について甚だしく不勉強で無知蒙昧もいいとこだけど、80年代に「いまここにいるのはほんとうのあなたではないんですよ」って言葉を投げかけた人がいて、その人がすごく多くのキチガイを作ってしまったこととかを思い出す。この話まとまらないけどここまで。