端的すぎる覚え書きいくつか。

梅宮アンナを端緒とする「できることとできないこと、もしくは不可能性とのつきあい方」問題だけど、飛躍はボンクラの証し((c)bewitched)なのでもう少し寝かせておこうと思う。ヒントとなるのは「ユニークさ」という切り口か。これがあんまりに月並みな人生訓じみた話になりそうで、いくらボンクラな僕とはいえ少し参る。

もうひとつ、「20世紀ノスタルジア、ピチカート解散、そしてクレしん映画版」という話。未来とレアグルーヴとアーカイヴ、そしてノスタルジーの捏造という割と大きな話題になりそうでいまだ未消化。

次。保坂和志を読み返していて思うのが、読書と読破の違いというか、プロセスと結果の距離感というか、読書におけるフローとストックというか。要するに保坂和志は読んでるときいい気分だ。読後は余韻しか残らなくて、それはそれでいいんだけど、なんか寂しくてまた読み返してしまう。正直に言うけど、僕はそういう小説の読み方を知らなかった。

じゃあどんな読み方だったかなと思い返すと、ひとつパラグラフを読み終えるたびにひとつレゴブロックが降ってきて、読み終えるとその小説がある形をなしていて嬉しい、というか嬉しいかダメかのどちらかだ。保坂和志の小説はあんまりそういうブロックだのピースだのっていう形あるものを残してくれない。だから読後にどうだった? と聞かれても困る。気持ちよかったとしか言えない。いい香りだった、でもいいけれど。

もちろん他にもいくらだって読んでいる途中、積み木の最中に楽しい小説はあるんだけど、それでも読後にはちゃんと形がなされていて、僕の嬉しさの中心はその形を愛でることに置かれてしまう。これはこれで別に悪くはないしむしろその素晴らしさに後押しされて僕はずっと本を読んできたわけなんだけれど、それとは別の、小説の中をたゆたってるときがなにより気持ちいい、という感覚を一度覚えてしまうとどうも読書中の勝手が違う。今、読み返してみたい本がいくつかある。セックスに例えようかと思ったけど、まんますぎて意味がないので止めておく。要するに僕の読書がお子ちゃまだったというだけのことなのかもしれない。

ついでに思い出したのがお酒、殊にワインのテイスティングにずっと感じていた違和感で、いくら僕の知見が狭いとはいえ、たいていのワイン評価が香りや舌触り、テイストといった口から食道の間の話題に終始しているように思えるのはなぜだろう。僕が知りたいのはむしろ酩酊感についてで、その酒は強く酔うのか、穏やかなのか、重くなるのか、軽やかになるのか、痺れるのか、澄んでいるのか、よく聞き取れるのか、ノイズに包まれたようになるのか、鈍く見えるのかクリアなのか、持続するのかしないのか、するならどんな曲線を描くのか、といった問題だ。

明らかに味オンチな僕がそれでも酒を飲むというのは、美味しい味覚に出会うことよりどちらかといえばいい酔い心地を味わうことを求めているからで、それに関する指標があまりに少ないように感じる。というか、酔い心地に重心を置いて語るのは、あまり品がおよろしくないことだとするようなムードがあるように思えてしまうのはいぶかりすぎだろうか。僕はそこにアルコール、ひいてはドラッグや変容意識をめぐる社会の隠しごとがあるように感じる。

昼間っから2級酒のカップ酒を煽ってるアル中オヤジは確かにちっとも味なんてわかっちゃいないけど、酩酊感に関してはとても通じているんだろうと思う。彼らはいい酒といい酔いをダイレクトに結びつけて語ってくれる気がする。というかうちの親父はそうだった。そして、彼らを見下すワイン通気どりほどバカげたものはない。片手落ちという意味では同じ水準でしかないだろうに。たとえ腐ったタマネギのような味でも、それが素敵な酔い心地をくれるのなら僕はその酒を飲むだろう。何の話だったっけ?(ボンクラ)