盤上のトリックスター

 こぬか雨が始まりも終わりもなく降り続く陰鬱な午後、僕は吹き抜けのロビーをうなだれて歩いていた。そのビルの一室で朝から続いていた長く退屈な会議、それがまったくの徒労に終わったことを報告するため、職場へと戻らなくてはならないのだが。

 古めかしいエレベーターから吐き出された僕は、タイルのマス目に歩幅を合わせてロビーを横切っていく。用心深くひとマス飛ばしで歩く、そんな自分の神経質さにうんざりしてふと目線を上げると、たちまちリノリウムの床材を敷きつめたフロアが、ゲームの盤面となって僕を取り囲んだ。僕は自分が次に踏み出すべきマスを見た。そのとき、僕の沈んだ心に、まるで昼下がりの教室に矢のごとく舞い込む燕のように「桂馬の動き」がフュッと飛び込んできて、この盤上のトリックスターは瞬く間に僕の魂を鷲掴みにし、どこか遠くへと運び去ってしまった。

 好むと好まざるとにかかわらず、サマルカンドの昔から、人は限定された動きが付与されたゲームの駒からそれぞれのキャラクターを演繹してしまう悪い癖がある。こと将棋に関して述べようものなら、たとえば馴染みの店で「金は有能だが融通のきかない若手将校の匂いがする」なんて口にしてしまったが最期、いつもは寡黙を守りとおしているはずのバーテンから「いや堅実かつえげつない攻撃を繰り出してくる老獪な策士の趣が」なんて横やりが入り、その後トイレに立つでもないかぎり小一時間は席を離れることも許されないだろう。

 ひとそれぞれの解釈はほっぽっておくにしても、おのおのの駒に付与されたステロタイプは厳然としてあるわけで、そう、飛車であれば直情型の熱血漢もしくは武蔵坊弁慶だとか、歩であれば窮鼠猫を噛むとか堪え忍べばいつかは金になるだとか。そして桂馬、あのとき僕の心にペンライトで光の軌跡を描きつけたわれらがやんちゃ坊主について述べるなら ―― その前にそいつの素性を暴いておくのも徒労としては悪くない。

 周知のとおり桂馬とは、将棋において左右に1マス、前方に2マス移動する動きを与えられた駒のことであり、囲碁においては基準となる石から縦軸を2、横軸を1(もしくはその逆)ずらした位置関係を指す。僕はどちらかといえば将棋のほうに親しんでいるので前者をメインにイメージしてしまうきらいがあるけれど、その存在が盤上でとりわけて異彩を放っていることに変わりはない。
 それというのも、おしなべてボードゲームの盤面は正方形によって秩序づけられており、それゆえプレイヤーの思考が45度性に囚われがちだからである。そんな45度の官僚制が敷かれた盤上において、桂馬が描く(0,0) → (1,2) or (-1,2)の軌跡が生み出す三角形は、たとえばスクエアプッシャーのテーマを初めて聞いたとき(シェーンベルグでも一向にかまわないが)のような心地よい違和感をともなってプレイヤーの前に出現する。45゜という、おそろしくポピュラーなアングルに安心しきった頭頂葉に一閃、63.434948823.....゜(=atan2*2(1/π)*90)のスパーク。ともすればそれは、定石に硬直化しがちな思考を解きほぐし、局面に突破口を授けてくれる重要な糸口となることだろう。

 それにくわえて、桂馬の進路に与えられた選択肢はたったみっつである(あっち?そっち?それともここにとどまろう?)。この惨劇については、悪名高きリカードゥの比較優位特化論が、雄弁すぎるほど簡潔に答えを導いてくれるだろう。 最も縦横無尽かに見える龍と馬にもけっして描けない、固有の軌跡を持ち得た桂馬からは、あらかじめ退路が断たれていなければならない。なぜなら、エキセントリックなオールラウンダーなんて許容するほど、この世界は寛容な心を持ち合わせていないからだ。

 「桂馬の高上がり」、つまりアクロバティックな手法で、人の頭の上を飛び越して、分不相応な高みを目指せば足下をすくわれるのが世の常だというこのことわざに潜むのは、トリッキーな存在に王道を許すことのできない僻目と狭隘さである。もし花形の座に預かろうとするなら、それには権威とか礼節とかいう、みずみずしさの天敵みたいな債券を買ってからにしなさい、とそれは語りかけてくるだろう。したがって、45度性にへつらうことを拒んだ最初で最後の駒は、その青臭さゆえ自らのキャラクターを特化し、戦場の道化、チャーミングな徒花として自らを確立するに至ったのだ──


 職場に着くまでのユリカモメのなか、窓の外を眺めながらそんなことをとりとめもなく考えていた。僕の通うビルが30秒後の到着を告げたとき、窓に映り込んだ自分の顔に焦点が合い、同時に背筋を寒気が走った。誰もいないはずの向かいの座席に、いつのまにか異様な風貌の男が座っているのだ。はっと振り返ると、男はこちらを見て、まるで人の心を見透かしたかのような薄笑いを浮かべている。いや、見た目にはまったくの無表情なのに僕には笑っているように見えたといったほうが正確だろうか。気味悪さのあまり扉が開くのも待たずに席を立った僕の肩を突然、男の手がぐいとつかんだ。身の毛がよだち、僕はうわっと声を上げてホームへと駆け出した。逃げる僕の背後で男の声がした。男は確かにこう言った。

「友よ、桂馬の心意気を忘れるな!」

 男を乗せたままユリカモメがホームを出ていく。動転した思考のなか、僕は男が誰だったのかようやく思い出すことができた。あのいでたち、そして残されたセリフの意味。そう、まちがいなく彼、桂馬として生きるとはどういうことかを身を持って示したあの男であった。


<付記>
97/3/28のrecent timesに載せた小さな文章。
再掲載にあたってかなりリライトしました。
当時、日記ともフィクションともつかない、
それでいてアイデアを提示できる、
ある種のエッセイのような文章を書きたいなと
思っていた記憶があるんですが、
結局よくわかんないものになってしまいました。
あの頃を思うと、ずいぶん遠くへ来たような、
でもぜんぜん成長しちゃいないような、
そんなありがちな気分にとらわれます。