人生の奔流が押し寄せてきて、ただもみくちゃにされてる間にまた2ヶ月が過ぎていった。わかったことは、ほんとうのところ、人生に選択肢なんてないということだ。近代自我とか自由意志とか、ないの。戦争と一緒で、ある日それは預かり知らぬところで始まり、ただ対処するだけで精一杯で、また預かり知らぬところでいつの日か勝手に終わる。そういった性質のもの。何年か後に見返すためにメモだけでも残そうと思う。


6/1、母の同意が得られないまま、父のみ単独で老人ホームに入居。

母「お父さんに会わせて」ホームに連れていくと「こんなところに一秒でもいたくない」帰宅すると「お父さんに会わせて」。下北に出勤しながら昼夜問わず立川と花小金井をピストン運送。おれの体力が早くも限界に。

それでも30分だった滞在時間が3時間になり、半日になり、1週間が経つ頃にはとうとう1泊した。10日目過ぎには2泊するようになり、いよいよ母の荷物も搬入することに。

引越しはおまかせパックを頼んだが、何を運びどれを捨てるかはあらかじめ決めておかなければならない。その仕分け作業が地獄だった。狭い団地の3DKに、どうしてここまでモノがしまい込めるのか。

実家の至るところから同じものが延々出てくる。たとえばお気に入りのお菓子。食べかけのまましまわれ、しまったことを忘れてしまい、また買い直し、食べかけをしまい、また忘れ……、そういったものが10個単位で出てくる。洗剤、ノートなど、同様。

中でももっとも母が執着を示した様子が伺えたのが、なんでか知らんが、タオルだった。誇張でなく、家じゅうから3、400枚が出てきた。この実家の整理によって、父母に実家を運営する能力が完全に失われていることが白昼の下となり、施設入りへの迷いが完全にふっきれた。

母が「帰宅したい」と言い出さなくなり、10日か2週間くらい、嵐の前の静けさみたいな時間があったように思う。考えてみれば、この時期もっと敏感に察していれば少しは何かが違っていたのかもしれない。ホームからは母の分離不安、父からひとときでも離れないという様子が報告されていた。父と話すと、そのことにだいぶ滅入っている様子だった。

ホーム長さんから、緊迫した声色の電話。母が暴力事件を起こしたという。聞くと、父を叩いていたところを発見され、止めにはいったホーム職員のことも叩いたとのこと。

お袋はもう事務的に精神病院に移送になって、親父と俺の目の前で脇固められて閉鎖の認知病棟に連れられていった。そのあと落ち着かせるために1時間ほど病室でふたりきりになったのだが、ちょっとなんともいえないすごい時間だった。あれが俺とお袋の過ごしたもっとも濃密な時間になるんだろうな、と思う。

さて4月に老人ホーム入りが浮上してからというもの24時間えんえんお袋からの詰問と、罵倒にも近い懇願を受け続け、最終的に暴力を受けるにまで至った親父だったが、長年連れ添った夫婦とは恐ろしいもので、これぞザ・共依存、お袋がいなくなってホッとすることもなく、すぐに人生3度目の鬱症状が始まった。

過去2度の鬱病は、ともに心臓外科で入院中に発症したもので、基本的には14歳から働きづめのため、長期にわたってベッドの上で休んでいるということに精神が耐えきれず、暮らしが立ち行かなくなるとの予期不安から鬱に至るのだった。従って退院すれば数ヶ月で症状は消えた。

お袋の入院から2週間、親父の鬱は、かつてない被害妄想に膨らんでしまった。証券口座がおかしい、インフラや光熱水の料金は大丈夫か、といった不安から始まり、パソコンをハッキングされている、日記を読まれている、部屋の会話も携帯も盗聴されている、と進行した。

また同時に、入居以来お袋が、他の入居者と口をきくな、スタッフとも親しくなるなとロックしていたことが発覚。独占欲からであろうが、とにかくそのあたりのやり口がすごい。またもともと親父に社交性が皆無だったことも災いした。

被害妄想はお茶になんらかの薬を入れられている、トイレのウォシュレットに仕掛けをされている、入居者全員に嫌われている、スタッフや管理会社は家の資産を狙っている、と拡大し、最終的に俺との電話で「これは誰かが元のふりをしているね」と言って切るまでに至った。

それで昨晩も駆けつけて、話を聞いたり、長年溜め込んでいた薬を回収したりしてきたのだが、なんというかここに至って打つ手がなくなってしまったというか、行くも地獄、戻るも地獄、みたいな状態になってしまって、八方塞がりである。たぶんいま俺には介護のプラン全体を見直すカウンセリングが必要なのだが、その相談する相手がいないことにも閉塞感がある。