無敵の人、というのを見た。人生初。

急行の地下鉄AトレインDトレインはコロンバスサークルを過ぎると7駅も飛ばすので、京王線特急の明大前=調布間ほどではないけれど、その間車内は閉鎖空間と化す。無敵の人はそこに乗ってきた。50代くらいのヨーロッパ系で、小太りで、身なりは貧しい。水筒サイズのBluetoothスピーカーを持っていて、フルボリュームでヒップホップを流しながら、私とドアひとつ離れたはす向かいにドカリと座った。

座っているわたしの目の前には上品な服装をした南アジア系の、ボストン眼鏡をかけた細っこい男性が立っていて、あまりのやかましさに音の方を見つめている。電車が発車してしばらくして、しかしボリュームは一向に変わらず、わたしの真向かいに座っている黒人男性がさすがに注意しようと腰を浮かしたとき、ほんとにその瞬間、無敵の人は大声で喚き始めた。

「おい移民野郎、なんで俺のこと見てる」「……別に」「なぜ俺を見据えてるのかって聞いてるんだ」「…音楽を聴いてた」「嘘つけ、俺にガン付けてただろう、お前は移民だから知らないだろうがな、そういうのをガン付けるって言うんだこの国では。無礼なことなんだ。お前はどこの国で生まれた? おれはニューヨーク生まれだ。俺が教えてやる」「ガン付けたりしてない。あとあなたは落ち着いたほうがいい」

現代病、とのそしりを受けるべきだろうが、この間わたしが思っていたのは「うわーこれ動画で見たやつだ」と「動画撮りたい、でもカメラ向けたら暴れ出しそう」、あと「ぜったいこのあと『英語を喋ってみろ』って言い出す」だった。しかしながら予想は外れ、この手の動画にお定まりの「英語を話せ」は出てこなかった。理由はたぶん、移民の彼のほうが流麗な英語を話していたからだろう。

いずれにせよ見てらんなくなって、わたしと向かいの黒人の男性は目で示し合わせ、立ち上がろうと腰を浮かした。その瞬間、無敵の人はFワードなどを喚きながら柴田恭兵のような不思議なステップで、ドアふたつ向こうまでスッと遠ざかってしまった。移民呼ばわりされた彼と黒人男性とわたしは肩をすくめ、やれやれ、というジェスチュアをして、125丁目の駅に着くまでの残り何分かを、男に注意しながら過ごすことに決めた。

遠ざかっていった男は、車両の端に乗っていた太った黒人女性に黒人の使う言葉でなれなれしく話しかけ、ついで逆側の席に座っていた白人女性が抱いていた赤ん坊を、ベロベロバーとかなんとか言ってあやし始めた。男はステレオの音量をほぼゼロまで下げ、なんてかわいい赤ん坊なんだ、あなたは素晴らしい母親だ、とか大げさな身振りで言っている。電車は125丁目の駅に滑り込み、ドアが開いて、わたしと南アジア系の彼と黒人の彼とはそこで降りた。

さてわたしが何を感じたか。簡単にまとめると卑劣漢の反射神経はすごいな、ということだ。別の言い方をすると、「無敵の人」というのは「何が起きても無敵でいられるように行動する人」という意味なのだとわかった。どこまでプランでどこから無意識か知る由もないけれど、無敵の人の行動は徹頭徹尾、合理的だった。

まず爆音ヒップホップは、迷惑を撒き散らしてトラブルを呼び込むための撒き餌だろう。もし誰かが騒音を言い咎めれば、格好のトラブル発生だ。仮に黒人なら、恐い黒人に絡まれていますと周囲にアピールすれば優位に立てるし、白人なら黒人の音楽を差別するのか? お前はレイシストだな? と絡めばいい。それ以外ならこの移民野郎と言えばいいだろう。いずれにせよ喚き散らして罵倒できる相手が見つかって、お得だ。

しかし誰も相手にしなかった。そしたらターゲットの選定だ。車両にはわたしを含め他にも移民っぽい人間はいたなか、もっとも体格的に制圧しやすそうな、ヒョロっとしたメガネ東洋人に絡んだのはやはり選球眼が良い。そして車内でもっとも身体的にめぐまれていた、わたしの真向かいの黒人男性の動作には驚くほど機敏に反応した。彼が腰を浮かすたび、その瞬間に男は行動を変え、動きを封じようとした。

かつ差別的な言動を撒き散らしたすぐあと、黒人女性にフレンドリーに話しかけることで、自分が有色人種に対して差別心がないよう見せるようポーズを取り、直前の暴言の打ち消しを図った。さらに赤ん坊に対して優しいことを大げさにアピールし、自分が善良な人間であることを周囲に見せようとした。しかも赤ん坊が泣かないようにスピーカーの音を下げて。最初から周囲に迷惑な音量だと認識していたという証左だ。

もっと踏み込めば、黒人性の強く貼りついたヒップホップを流していること自体、何らかのサグい雰囲気で自己を補強したかったのかもしれないし、周囲の黒人を味方につけられると踏んだのかもしれない。とかいろいろ勘ぐることができる。いずれにせよ、このレイシズムを傘に着てトラブルを渉猟している男性にとっては、何が起きてもプラスで何が起きても無傷、何が起きてもお得なのだった。

なんだろうね、海底火山みたいな地獄のような環境で、本来毒である硫黄を養分にして生きるチューブワームとかに、ひょっとしたら近いのかもしれんね。置かれた境遇に対して最適化を図ろうとする生物の奥深さを見た気がした。あのおっさんに、何かに傷つくことのできる日がまた、来るのだろうか。風邪で寝込んでる間にジョギングする習慣が吹き飛んでしまった。まずい。